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行く雁の声より数は少くて 道誉
絵をかけて置く前の花立
雲となる香の烟の一たきに 道誉
人も心や仏なるらん
このたびは生まれがたきに生れきて 道誉
☆
香に聞きて良子さんは、
道誉の風景と題し
もののふの 明日なき空に 散り映えて
今日につたわる 無明の華
そして、鋤I代さんは寸門多羅の香りに道誉を詠みたいと思われ、「秋の夕暮れ色とりどりによそおう山々、木々に一人端座する男」の姿が見え、
刻々と よそおう木々の 移ろいに
一人坐する 秋の夕暮れ
そしてその胸に去来する道誉像は、
ゆったりと 紅蓮の中を 歩む影
ゆらめく炎 哄笑ひびく
烈しくも 生き難き世を 意のままに
婆娑羅に生きる 男子の見事
淑子さんは、南北朝の動乱の時代を生きていく道誉の流儀をみつめて
あしもとの あやうさ抱き 舞い踊る
のちに華咲く 婆娑羅の流儀
seicho
この婆娑羅大名道誉のこと書き残した『太平記』について、『太平記ー鎮魂と救済の書』松尾剛次著(中公新書)では次のように述べられています。
「私は、十四世紀前半から末までの、世に南北朝の動乱と呼ばれる、打ち続く戦争によって死んだ後醍醐天皇(1288-1339)をはじめとする人々への鎮魂と、その廃墟の中から立ち上がろうとし、室町幕府に結集した人々(とその子孫)の「応援歌」であったと考えている」と。
seicho
南北朝時代、京都は後醍醐天皇の南朝側と足利尊氏方の北朝側の激しい攻防戦でとったり取られたりしていました。
1361年のことです。
南朝側の楠木正成の子の正儀が京都に攻め込んだ時のこと、屋敷を立ち退く北朝側の道誉は、邸内の茶会所の畳を新しく取り替え、書院には王義之(唐代の大書家)と韓愈(盛唐の大詩人)の書を飾り、酒を残し敵が来たらもてなすようにと言い残し去っていったのです。
正儀はその風雅の情に感じ入って、邸を焼き払うことなく、そのままにして邸に陣取るのです。
時が移り、また北朝側が形勢を盛り返して京都に攻め上がり、南朝の軍勢が撤退することになったとき、正儀は当時の習いで会った邸に火をかけることもなく退却。
「ばさら」とは過激、矯激で、バイタリティがあり、美学的・官能的である。しかも社会的生活の中で感覚的な自己主張として生きている。美をこの人生で実現したい、人生を楽しみたい。それが「ばさら」ではないか。栗田勇
このような道誉のことを想いながら、婆娑羅の精神を振り返ってみようと香にむかいました。
では道誉の心を香りにどのようにして聞いたのでしょうか。
今回は十助v香。香木は4種で10包みの香が出ていきます。
香りはとても微妙で、
当てることはとても難しい・・・・・。
決断の勇気が大切。
そのような一日でした。
つづく
seicho
紅葉がもとで妙法院を焼き払った婆娑羅大名佐々木道誉。
これには、延暦寺との領地の争いもその原因の一つだといわれていますが・・・・・。妙法院院主は延暦寺の座主にもなる有力者、当時は後伏見院皇子亮性法親王でした。そのもっとも憚れる所を放火し、流刑の道中の所業など、まさに既存の権威を恐れない婆娑羅大名道誉の凄さとでもいいましょうか。
そして、ある年の春。
seicho
大原野の花(花の寺と呼ばれる勝持寺)のもとで催した「世に類ひ無き遊び」は当時、多くの人々を驚かせました。
宗左近著『日本美 縄文の系譜 バサラの花の章』では、
「まず、京中のさまざまな芸能の上手たちを一人残らず同行し、寺の庭には中国渡来の金襴、綾、錦などの布地をあしらい、茶の湯を立て、香を薫じて大原野あたりの野と山とを、現代の言葉でいえば、インスタレーションして環境芸術化し、「四海五湖(中国の名勝の全容)の風景たちどころにえ(獲)たり」という風にしてしまったのです。しかも、そのあとにすごい趣向が、待っている。
“一歩三嘆して遥かに登れば、本堂の庭に十囲(高さ約十五メートル)の花木四本あり。
この下に1丈(高さ三・三メートル)余りの鍮石(真鍮)の花瓶を鋳懸けて、一双の花に作り成し、そのあはひに両囲(高さ三メートル)の香炉を両の机に並べて、一斤(約六百グラム)の名香を一度にたき上げられば、香風四方に散じて、人皆浮香世界(香積如来のいる香でできている世界)の中に在るがごとし」(『太平記』)
というわけです。
15メートルの高さの桜の木を、特大のいけ花とし、馨しい浮香の世界を現出させた道誉。さぞや豪快な催しであったことでしょう。
じつに、バサラ!
「正気のままでの物狂いである」と。