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何せうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ
憂きもひととき、うれしきも、思ひさませば夢候よ
建武2年(1335)の夏、二条川原の落書に
「この頃都に流行るもの、夜討ち、強盗、偽綸旨、召人早馬から騒動、生首、還俗、自由出家、俄大名、――譜代、外様のさべつなく、自由狼藉世界なり。茶香十炷(じゅつしゆ)の寄合や、犬田楽は関東の、滅ぶる元といいながら、田楽はなお流行るなり、――」とあって、茶の湯と十炷の香の集まりが流行している。
上記は『香料 日本のにおい』山田憲太郎著に述べられている中世のありさまです。
先月の月例「香の稽古」では、「室町時代の文化人と香」についてお話しながらその時代の風を香に聞いてみました。
香席の前に、お持ちした香木を中世の人の気持ちになって削り、その香味を味わい、印象を語り合う楽しみもおこなってみました。
seicho
淑子さんは自ら選んだ香木を削り、香味を聞き、その香木を『薄紅』と名付けられ、
かすかにもはかなく香り薄紅の花にも似たり
とされました。
巴さんの選ばれた香木は、
夏の夕暮れ、行水のときのからす瓜の花の香り、
名は『夕顔』と。
また、羑代さんは『夕暮』という名を付けられ、
やわらかく 暖かく 朱色に染まる夕陽。
そして、良子さんは、
かすかな 静かな 空気の香り 空のひろがり
香の名は、『薄暮(はくぼ)』。
もう一つの香木を聞いた純世さんは、
遠い島から
流れ着いた椰子の実
と感想を述べられました。
純世さんはハワイ在住の方で、
本日はゲストです。
seicho
さて、香席の証歌は、
なれや知る 都は野辺の 夕ひばり
あがるを見ても 落つるなみだは
幕府・奉行 飯尾彦六左衛門
いつの時代も大変です。
しかし、戦さが日常という10年に続く応仁の乱。
その現実は私たちには想像のつかない悲しみにあふれていたと思われます。
応仁・文明の乱
応仁元年(1467)から始まって文明9年(1477)まで続いた動乱ほど悲惨なものはない。
10年間ものだらだらした戦いで、宮廷、室町幕府を中心とする京都の最も大切な北部市街は、公家・武家屋敷の密集地域もろとも、焼けてしまった。
不安と戦乱を背後であおりたてたのは一揆だった。
これこそ下剋上の見本である。
領主に対する非法で、土地を追われた地頭や荘官などは悪党というものに変じ、領主層にそむき、安定していた地方制度を破壊した。
加えて天候異変、米価があがり、餓死者が続出。
大飢饉。
寛政2年(1461)になると事情はもっと悪くなり、四条の橋の上から上流を見ると、
川原は餓死者の死体でいっぱいになり、水も流れず、死臭が鼻をついた。
洛北の一僧侶が小さい木片で卒塔婆8万4千枚をつくり、死者1人ひとりの上に置いていったら、2千枚余ったという。その時だけで餓死者はつまり8万2千人あったのである。
香炉からかおりたった香は、
みやびさの中にせつなさを、
荒れた心に、
ひとときの救いを感じさせてくれました。
香に聞きて、
夕ひばり 都の野辺は 薫れども
おつる涙を なれは知るかは
巴
つらき世を のがれのがれて 花の御所
知性の道に 迷いし心
淑子
将軍義政の心を詠まれたのですね。
吹き荒れる 砂の嵐の その中を
かすかな香り 今につづきて
敦子
氷雨降る 荒れにし都 卒塔婆あり
そばに小さき 一輪の花
羑代
みなさまは、香りに聞いて、15世紀の京の都を想像されているのですね。
そこには、羑代が手向けた一輪の花も・・・・・。
(寛政2年(1461)になると事情はもっと悪くなり、四条の橋の上から上流を見ると、川原は餓死者の死体でいっぱいになり、水も流れず、死臭が鼻をついた。
洛北の一僧侶が小さい木片で卒塔婆8万4千枚をつくり、死者1人ひとりの上に置いていったら、2千枚余ったという。その時だけで餓死者はつまり8万2千人あったのである。資料『香道への招待』北小路功光 北小路成子著)
ハワイからのゲスト・純世さんは香りを色で感じられました。
それは、虹のように視覚化されたようです。
気高い紫、春のピンクのような空気。雑踏、ブルー。
伽羅、
羅国、
真南蛮、
真那賀、
佐曽羅、
寸門多羅
香木の香りはそれぞれに素敵です。
聞香は楽しい。
seicho撮
そろそろ紫陽花の季節も過ぎていきます。