プロフィール
選択している記事
カレンダー
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2009 >>
過去の記事
カテゴリー
香道の推薦図書
香道蘭之園
香道蘭之園 (JUGEMレビュー »)
尾崎 左永子, 薫遊舎
香道を志す者にとっていつも手にしていたい本です。インスピレーションの原点。
香道の推薦図書
香と香道
香と香道 (JUGEMレビュー »)
香道文化研究会
香道に興味ある人にいい本です。
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
聞香稽古:慧能の心と香り その4




 君見ずや

絶学(ぜつがく)無為の(かん)道人(どうじん)

妄想を除かず真を求めず

無明の実相即仏性

幻化(げんげ)の空身即法身 

証道歌 (よう)()(げん)(かく)大師

           『禅とは何か』澤木興道著より


  禅の六祖慧能の心をたずねて香を炷くなどと、
  大それたことをした聞香稽古。

  その間に、多くの書物に出会いました。

  澤木興道著の『禅とはなにか』もそのひとつです。
  上に書いたのはその中の、『証道歌』。

  「道」は生命。

  自分を極め、
  久遠の生命を体得する。
  その先には「絶学無為の閑道人」。

  学を絶して無為になった閑道人。
  

  道元禅師の言葉を思い出します。

  “坐禅は大安楽の法門なり”

  
  ちょっと一服です。



  
 聞香稽古で、香りに聞き想うこと

   生死の日々
  慧能 自在なり


  

  澤木氏の著書には、
  生死について次のように書かれています。

  生死は菩薩の遊技場

   「私たちは、
   この無明、生死、煩悩という
   すばらしいものを飲み込んで、
   この人生を縦横無尽に活躍するのである」
   
                  

 
 


「四季おりおり」がアップされています。
どうぞご覧ください。


 

| 香りの冒険者 | 07:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香稽古:慧能の心と香り その3
 

修行をしようと思うならば
家に在ってもよろしい
寺におらねばならぬ
ということはない

家にいてよく修行するならば
ちょうど東の国にいて
心がけの善い人のような
ものである

寺にいても修行せねば
西方にいて
心がけの悪い人のような
ものである

心さえ清ければ
そのまま自己の
本性という
西方にいることになる
               慧能

(TV番組:「五木寛之仏教の旅」より)


香りは、人それぞれの想いを乗せて香ってくるようです。

先日の、聞香稽古では、
良子さんは、伽羅の香に懐かしい幼い日々を思い出されたようです。
そして、真那賀の香りには明るさを。
寸門多羅にはすっきりしたものを。

羑代さんは、
真那賀の香りが、はげましの香りのように感じられたと。
今日は、すてきな風が吹いてきたようですとのこと。


敦子さんは、伽羅に慧能を想像し、
羅国ははかなく自分のようですねと。


それぞれの想いを香りに託して歌にすれば、
つぎのように詠うことができるのかもしれません。



 伽羅の香に 幼き日々の想いして
  なつかしき人 なつかしき町
                       


  捨てること かなわぬわが身 香を炷き
    聞くは香りの はげましの声
                       


  つつまれし 香りの中に気づきしは
   はかなきわれに よりそう慧能

                        


 
 
「四季おりおり」がアップされています。
どうぞご覧ください。


| 香りの冒険者 | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香稽古:慧能の心と香り その2


身は菩提樹に非ず
心鏡も亦台に非ず

本来無一物

何れの処にか塵埃あらん
                慧能

   

中国禅六祖・慧能の心を主題に稽古。
慧能は次のようにいいました。

菩提はもともと樹がいらぬ、
明鏡もまた台はいらん。
仏性はつねに清浄である、
どこに塵のつくことがあろう。
               
           『禅の思想』柳田聖山著 中公新書より




香炉を手にした淑子さんは、
真南蛮の香に、修行を。
真那賀の香に、清浄を。
寸門多羅の香に、肩の力が抜けたような安堵感を覚えたとのこと。



  とらわれし 心の闇にひかりさし
  慧能の想い自由な心
                        淑子



「四季おりおり」がアップされています。
どうぞご覧ください。



 
| 香りの冒険者 | 12:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香稽古:慧能の心と香り その1




心地含種性(しんちは しゅせいを ふくみ)
法雨即花生(ほううに すなわち はなしょうず)
頓悟花情已(とみに かじょうを さとりおわり)
菩提果自成
(ぼだいのか おのずから しょうず)

心という土壌は 仏性の種を含んでいて
教えの雨をうけると 智慧の花が開く
即座にこの花の心を悟ってしまえば
悟りの果実はおのずから実る

TV番組「ハイビジョン特集:五木寛之仏教の旅」を観ていると、中国禅・六祖慧能の言葉が流れてきました。


慧能のことを考えると、心が豊かになります。
形にとらわれることなく、心をわずさわれない生き方こそいいんだ。
本来無一物

昨日の慧能を主題とした聞香稽古でも、香木は豊かに香り、ゆったりとした時が流れました。
何を求めることもなく自由自在な満ち足りた気分になったのです。これも慧能のおかげでしょうか。

巴さんは、慧能の心を香りに聞いたとき、
見事に咲いていた“つわぶきの花”を思い出したそうです。

 伽羅にきく慧能の心ふるさとの
  南崖に咲く つわぶきの花

 香にきく慧能の心君見ずや
  空を漂う ひとひらの雲
                      


                                つづく


「四季おりおり」がアップされています。
どうぞご覧ください。

| 香りの冒険者 | 18:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香稽古:禅宗 六祖慧能

『良寛』を読んでいますと、う〜ん、と思う話がありました。
先月と今月の稽古主題の一つは、禅宗・六祖慧能です。

以前にも、慧能の心を香りに聞くという稽古をしたことがあります。
そのときにも書きましたが、もう一度載せておきましょう。

中国の禅宗は始祖達磨、二祖慧可、三祖鑑智、四祖道心、五祖弘忍、
六祖慧能となります。


★六代目「慧能」について

慧能は広東に近い新州の人で幼くして父をなくして、母と二人暮し、薪を売って生活していました。
ある日、村の辻で金剛経を説く道者に出会います。
あまりにもありがたいお経、もっと知りたいと思い、道者に教えについてもっとふかく説いてくれる人はおらぬか、とききました。
すると、弘忍禅師という方がおられる、そこにゆけば、禅宗の真髄がつかめるだろうといわれたのです



弘忍禅師がおられるのは、長江の北岸を東に向かって大別山側へ入りこんだ辺境にある東禅院。
大伽藍の巨大な道場でした。雲水が五百人。
道者の紹介状をもって入門を乞うがなかなかゆるされません。


『祖堂集』によると、弘忍が問うています。
「おまえはどこから何しにきた」
「はい、新州からきました。仏法をおさめたくてまいりました」
「お前は嶺南の出だな。仏性はないはずだが」
(むかし、南方人をいやしめる風習があったみたいです)
「人間に南北はございましょうが、仏性には南北はないはずでしょう」
「それでは、お前はどんな功徳をするのか」
「わたしに出来ることは、石を抱いて米をつき、大ぜいの雲水さんに供養するぐらいのことしか出来ませんが、一生けんめい働きます」
 これが最初の問答です。
 弘忍は入堂を許可します。


慧能は典座職の下働き、朝から晩まで米をつきます。
当時の米つきは足で踏むそうです。
身体は重石。
小男だった慧能は、腰に重石をくくりつけ、一日一夜に十二石ついたといわれます。


八ヶ月が過ぎました。
弘忍は、病が重くなり後継ぎをきめねばならなくなりました。
そして、大衆に告げました。
誰をわしのあとつぎにしょうか。
もし見処あれば、それぞれの見処を詩文にして壁書しておけ。
衆僧の中で誰もが一位と認めた紳秀が掲げました。


身は是れ菩提樹
心は明鏡の台の如し
時々に勤めて払拭し
塵埃をあらしむなかれ



 衆僧は感心します。なるほどそのとおりだ。
ひとりの童子がこのことを庫裡にきて米つき男の慧能に告げます。
慧能は文字を知りませんでした。
そこで、字の読める人にたのんできいてみます。
慧能は首をかしげます。
そうして、自分の考えを詩文にしてくれぬかとたのみます。
字の書ける男が代書しました。


身は菩提樹に非ず
心鏡も亦台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃あらん



 衆僧たちはびっくりします。
神秀の見処を、文盲の米つき男が足もとからひっくり返したからです。



水上勉氏の解釈によれば、

「紳秀さんよ。あんたは、この身は菩提の樹だ、
心は鏡の台のようなものだ。
毎日ふいていないと埃がたまるぞ、といわれるが、
もともと、この身は菩提の樹なんぞであるものか。
心鏡といったって台があるものでもない。
元来人間は空である。
身心といっても何もありゃしない。
どこにチリがたまるというのか」


翌朝、弘忍は微笑したのです。
あとの詩の作者こそ法を継ぐべき人物だと。


慧能は世にいう南宋禅、神秀は北宗禅の祖となります。
良寛さんの禅は、六祖の流れです。
それは、日常から生まれた体験的な禅境を示します。


以上のことの資料は、水上勉著『良寛』 発行:中央公論社です。
ありがとうございました。



「元来人間は空」と聞いた瞬間、
すべてのものが“いとほしく”感じられてくるのですが・・・。
なぜでしょうか。


香に聞いてみよう。

「四季おりおり」がアップされています。
どうぞご覧ください。




| 香りの冒険者 | 19:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
| 1/1ページ |