一定期間更新がないため広告を表示しています
最近、イエスに関するテレビ番組が放送されました。
その中で、キリスト教美術のことが語られたものがあります。
残酷な磔刑の絵画。
思わず目をそむけたくなります。
しかし、解説によれば、
その絵が、精神を病んだ人を治したそうです。
ありうるなと思いました。
極限の悲痛な姿は、人の魂を救うのかもしれない。
聞香イエスの稽古。
寸門多羅は贖(あがな)いの香りがしました。
香りに聞いて、敦子さんは、
人間の 真理語りて いのち生く
ゆるぎなき愛 永久(とわ)にもとめて
「キリストが、その悲しみの極まりし時、“アバ、父よ!”と大声で呼んだ気持もわかるような気がする。
母のあいより なおもあつく
地のもといより さらにふかし
ひとのおもいの うえにそびえ
おおぞらよりも ひろらかなり
―さんびか第52 」
太宰治著『正義と微笑』より
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたはなおさらのことではないか。(略)
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
(ルカ12 49)
この言葉は、当時の人々の心をどれほど喜ばせたことでしょう。
しかし、既成秩序にとっては、これほど危険な言葉はなかったのです。
聞香稽古では、香木は、伽羅、羅国、真那賀、佐曾羅、寸門多羅が選ばれました。豊かに薫りたつ香木。
香に聞き、羑代さんは、
ゴルゴダに 薄紫の 佐曾羅の香
愛しき(かなしき)人の 姿ほの見ゆ
「あの人は寂しいのだ。(略)
矢庭にあの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。おう可哀想に、あなたを罪してなるものか。あなたはいつでも優しかった。あなたはいつでも正しかった。あなたはいつでも貧しいものの味方だった。そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった。あなたはまさしく神の御子だ。わたしはそれを知っています。おゆるし下さい。私はあなたを売ろうとして此の二、三日、機会をねらっていたのです。(略)危い。いますぐ、ここから逃げましょう。ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い。われらの優しい主を護り、一生永く暮らして行こう、と愛の言葉が、口に出しては言えなかったけれど、胸に沸きかえっておりました。きょうまで感じたことの無かった一種崇高な霊感に打たれ、熱いお詫びの涙が気持ちよく頬を伝って流れて、やがてあの人は私の足をも静かにていねいに洗ってくだされ、腰にまとって在った手巾で柔らかく拭いて、ああ、そのときの感触は。そうだ、私はあのとき、天国を見たのかもしれない」
太宰治著『駆込み訴え』より
『イエスとはなにか』(笠原芳光・佐藤研編 春秋社)の中で、跋において笠原芳光氏は、私見の一端をとして、
「イエスは紀元1世紀の直前、ガリラヤのナザレの手工業者であったヨセフと妻マリアの子として生まれた。そして父親から、その業を学び、父の死後は、その業を継いだと思われる。イエスの前半正はまさにホモ・ファーベル(作る人間)であった。しかし、さまざまな人生の苦悩によってか宗教に関心を覚えるようになり、生家を出て、洗礼者ヨハネ教団に入り、ホモ・レリギオース(信ずる人間)になった。しかしそのような宗教に安住することはできず、やがてそこを離脱して、自立し、ガリラヤの各地を民衆とともに遊行するホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)になった。その自由な生き方がユダヤ教団とローマ国家への反逆とみなされて殺害されたのである。イエスはもとより宗教家ではない。いわゆる宗教的人間という呼称も、かならずしも正当とはいえない。むしろ、遊行者ともいうべきな存在であった。遊行はきびしく、そして自己と他者に生甲斐をもたらす行為である。略
イエスはキリストとされたことによって、本来の人間像とその思想は少なからず変形され、また埋没されてしまったからである」
その後には、「キリストとして世界で最も有名な存在となったけれども、イエス自身は当初から今日に至るまで、依然として無名の人である」と。
若き日のイエスの苦悩とは・・・・・
キリストの名のもとに隠れてしまったイエスの人間像は・・・・・・