今日は香木の用意。
今月の聞香・稽古は、
芭蕉「笈の小文」です。
どのような香りで芭蕉の心を聞こうかと思うと、
それだけで楽しくなります。
『野ざらし紀行』の旅から二年。
父の三十三回忌は来年である。
そう思った芭蕉は帰省をかねて旅に出ることを考えた。
この間、江戸深川で催した『蛙合(かわずあわせ)』句会で
古池や蛙飛びこむ水の音
を詠んだ。
それは俳諧における新風の句であった。
八月に、禅の師である仏頂和尚を、鹿島の根本寺に訪ねた。
『鹿島詣』の風流な旅。
昼より雨しきりに降りて、月見るべきもあらず。
雨で月が見れそうにもなかったのです。
しかし、
あかつきの空いささか晴れけるを、和尚おこし驚かしはべれば、人々おきいでぬ。
月のひかり、雨のおと、ただあはれなるけしきのみ胸にみちて、言ふべき言の葉もなし。
あかつきには空が少し晴れて、月を見ることができるようになったのです。
その時の和尚の一首と芭蕉(桃青)の句はとても良い。
和尚の歌は、
をりをりにかはらぬ空の月かげも
千々(ちぢ)のながめは雲のまにまに
(本来はいつも同じ光を放っているものである空の月の光も、それがさまざまに変わってながめられるのは、月にかかる雲の変化につれてのことである)
それに答えて芭蕉(桃青)は、
月はやし梢(こずゑ)は雨を持ちながら
(雨の後の雲行きはいまだあわただしく、漏れ出る月の雲間を疾走するかのようである。濡れた梢からは、まだ雨だれがやむことなく滴っている)
:解釈は『芭蕉文集』新潮日本古典集成を参考
迷う心に悩むのは、迷いの雲が真如の月の光を陰らすからだ。
というのに対して、月を疾走させる芭蕉。
すごい速さで走る月。
雲が流れている。
その流れの速さを月に託した芭蕉。
雲よりも早く走る月のイメージは
なんと素晴らしいのでしょう。
芭蕉の心の中では、清澄な真如の月は疾走するのです。
その年の十月、
芭蕉、四十四歳の旅に出ます。
百骸九竅の中に物あり・・・・・略
百骸九竅とは人の体。物とは心。芭蕉は自分を客観的に表現しているのです。
「体の中には心がある」、どんな心なのでしょう。
笈の小文への旅です。
「四季おりおり」日本文化藝術財団は新しいテーマで始まります。どうぞ今年もご覧になってください。