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命二つの
 
水口にて、二十年を経て故人(旧友)に逢ふ

命二つの 中に生きたる 桜かな


芭蕉の『野ざらし紀行』を主題にした稽古での人気の句です。

命あってこそ、二人は逢うことができた、
と再会した友と喜び合う芭蕉。
折から桜は満開に咲いているのです。

“命二つ”が胸に響きますね。

友や愛する人を想って、香りにつつまれてゆく幸せなひと時です。

露とくとくと試みに浮世すすがばや

にも注目された方がいました。
西行のすがすがしい境地にあやかってみたいものだと思う芭蕉を微笑ましいと。
西行庵の岩間からとくとくと滴り落ちている苔清水。
静謐な気配が伝わってきます。

道のべの 木槿は馬に 食はれけり

山路来て 何やらゆかし 菫草

もいいですね。


手にとらば消えん涙ぞ熱き秋の霜

亡き母の白い遺髪を手に取って泣く芭蕉の姿、
故郷に帰り前年に亡くなった母を偲ぶその心は・・・・・。

この句にはまいってしまいます。
母が亡くなったとき大阪の兄から深夜に電話があったのですが、
電話に出る一瞬、不安な予感がはしりました。
「いま・・・」と聞いて、涙が止まりません。
もう声をかけても、母の声は帰ってこない、と思うと涙しかないのです。
もう声は聞くことができない・・・と思うばかりでした。

| 香りの冒険者 | 11:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
芭蕉と香
四季おりおりも最終回になりました。
どうぞご覧ください。


先週の土曜日には、10年来の仲間と芭蕉の「聞香・野ざらし紀行」の稽古をおこないました。
男性ばかりの会ですが、ゲストに「源氏物語」が大好きという女性の参加もありました。

そこで思わず、富士川のところを強調してお話しをしてしまいました。

「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。
この川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。
子萩がもとの秋の風、今宵も散るらん、明日や萎れんと、袂(たもと)より喰物投げて通るに、


猿を聞く人 捨子に秋の 風いかに

いかにぞや汝、父に悪(にく)まれたるか、母に疎(うと)まれたるか。
父は汝を悪(にく)むにあらじ、母は汝を疎(うと)むにあらじ。
ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。


富士川のほとりに風にゆれる小萩を見たとき、芭蕉は「源氏物語」(桐壷の巻)の桐壷帝の歌に想いをいたすのです。
母に死なれた幼い若宮(源氏)を哀れに思い詠んだ歌です。

  宮城野の露吹きむすぶ風の音に
   小萩がもとを思ひこそやれ



捨子を小萩にたとえた芭蕉。
それにしても捨子の運命を、すなわち人間の苛酷な運命をこのように書いたのです。
「露ばかりの命」といい、「今宵も散るらん、明日や萎れん」という。
そして、「ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け(これは天命だから、お前の運命の恵まれないのを泣くよりほかないのだ)」と。
捨子に対してこの言葉。
芭蕉よ、辛いではないか、といいたくなるが、これがこの世の姿ではないかと・・・。
現代の世でも日々起こっている現実・・・。
ニュースで伝えられる苛酷な現実は、今もよく似た事件が起こっています。

この捨子の話は、風に吹かれる小萩に見た芭蕉の幻夢か、創作!
でも人生の真実を伝えているのです。

そして、詩人に問いかけるのです。
「哀猿の声にすら断腸の思いをいだく詩人らよ。あなたがたは、秋風の中に命絶えんとして泣いているこの捨子の声を、何と聞くのか」(『芭蕉文集』新潮日本古典集成より)と。

まさに、現代の課題でもあります。

香の仲間たちも、「う〜ん」
芭蕉とはこういう男だったのか。

自分の住むこの世は地獄だと覚悟した時に、
現実を克服し、逞しく生きていく勇気がわきおことがあるのです。
そして、謙虚な心が生まれる。

香に聞いてみよう。
香は何と答えるだろう。

| 香りの冒険者 | 09:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
旅とはなんでしょうか。

「千里に旅立ちて、路糧を包まず、三更月下無何に入る」と言いけむ昔の人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋を出づるほど、風の声そぞろ寒げなり。
   野ざらしを心に風のしむ身かな


と芭蕉の「野ざらし紀行」は始まります。

芭蕉の愛する人生の書である『荘子』の「千里に適く者は・・・略」と、『江湖風月集』広聞和尚の詩句「路に糧を・・・略・・・三更月下無何に入る」をふまえ、
出かけるのです。

「無何に入る」とは、
一切の執着を離れきった心の理想郷。
無心忘我の境地に入る心掛け。
そう言った古人の心を杖にする芭蕉。

芭蕉がこの旅に期待したものは、

  旅寝してわが句を知れや秋の風

行脚し漂泊し、野に行き倒れて髑髏(どくろ)になってもいい、自分なりの俳風を開拓するのだ。俳諧の道を見出すのだ。
その覚悟で心にしみる秋風の中を歩く芭蕉。
俳人として命をかけた芭蕉の心境が察せられます。

ここまで書いていると、ドーと音がして庭から見える公園の大樹から黄葉が折からの突風にあおられて、まさに吹雪のように、一瞬公園が黄葉吹雪で見えなくなってしまうほど散っていきました。
いったい何枚の黄葉が散っていったのでしょうか。

そうかと思うと、今、あれほど曇っていた空から日の光がさしはじめました。
先ほどの景色は幻想だったのでしょうか。
もしかしたら、嵐山光三郎氏の言う宇宙的な幻想
そう思えるぐらいです。
目に焼きついたその一瞬!

  野ざらしを心に風のしむ身かな

芭蕉の言う「造化:自然のエネルギー」は凄いですね。
風に舞う木の葉の旅は地に帰る旅なのでしょうか。


| 香りの冒険者 | 09:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
芭蕉とランボー
「私は学生のころアルチュール・ランボー『地獄の季節』を白水社小林秀雄で読んだ」と書かれているのは嵐山光三郎氏。

今月の聞香の稽古で、香に芭蕉の心を聞いてみようと思った時から、芭蕉とランボーのことが気になっていました。
多分この本かなと本箱から取り出したのは嵐山光三郎著『芭蕉の誘惑』です。
パラパラとページをめくっているとありました。
しっかりと赤線が引いてあったのです。

「序文に、小林が吾妻橋からポンポン船に乗って向島の銘酒屋の女に会いに行くシーンが出てくる。銘酒屋の女へ買った穴子の鮨がつぶれやしないかと案じつつ、小林はメルキュウル版の安手の『地獄の季節』を懐にしまっていた。この訳が刊行されたのは昭和五年、小林二十八歳のときである」
う〜ん。まだ私は生まれていない・・・。

そして、「ランボーの『地獄の季節』序文に隅田川のポンポン船を引用し、しかも銘酒屋の女に逢いに行くシーンをやるせなく述懐するところが小林の凄腕であった。私は、ランボーにもまして小林の放蕩ぶりがまぶしかった」
うむ、青春。

「ランボーは、自意識を手放さず、かつ自意識に閉じこめられることもなく世界を解体して見せた詩人である。ランボーが創り出した宇宙的な幻想は、聖化された狂気であり、芭蕉に共通する空漠の孤独がある」

ここまで読んでやっとスッキリしました。

気になっていた芭蕉とランボーの関係は、宇宙的な幻想空漠の孤独。

今回の稽古は芭蕉の最初の旅「野ざらし紀行」です。
香に聞いてみよう、宇宙的な幻想空漠の孤独を。

| 香りの冒険者 | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香・芭蕉
日本文化藝術財団「四季おりおり」は“冬の美しさ”です。ご覧になってください。
四季おりおり

氷ばかり艶なるはなし。
苅田の原のなどの朝薄氷、ふりたるひはだの軒などのつらら、
枯野の草木など、露霜にとじたる風情、面白くも艶にも侍らずや。

                        心敬法師『ひとりごと』
 
十五世紀の連歌師でもあった心敬法師の幽玄の境「冷え寂び」は芭蕉にもつながる心でしょう。
| 香りの冒険者 | 09:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
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