明日は、吉田松陰を主題に聞香稽古です。
松陰の生きた幕末。
黒船がやって来た時の有名な狂歌があります。
太平のねむりをさます上喜撰(蒸気船)
たった四はい(四隻)で夜もねられず
上喜撰とは、お茶の名です。
つまるところは、「太平の世になれ、眠りこけているような世の中だが、上喜撰をたった四杯飲んだだけで(蒸気船が四隻きただけで)すっかり目をさまされ、夜も眠れないようなだらしなさだ」。
ずいぶん皮肉られたものですね。
つぎのような川柳もつくられました。
武具馬具師(ぶぐばぐし)アメリカさまとそっといい
大変な世の中になったものだ、といいながら武具や馬具を売る商人は喜んだのです。
太平の世が続いたせいなのか、武具を持たない武士たちが多かったらしいのです。
武具は当然値上がりしました。いままで十両ほどで買えたものが七、八十両にもなったそうです。
そういえば、当時一揆が多発しましたが、お城には武士たちが鎮圧のために使用する武具もなく隣の藩に借りに言ったという話もあるのです。うそのような話ですね。徳川幕府の体制、すなわち武士たちの時代はその基盤から崩壊しつつあったのです。
江戸の人々は上も下も大騒ぎ、開国を日本に求めるアメリカのペリーとの会見によってです。
異国船との事件が起こりそうになったときには、早半鐘(はやはんしょう)が打ち鳴らされることになり、武家も町家も早版木を打ち鳴らしながら持ち場にかけつけるのです。
妻子のあるものは、すぐ引きつれ退避することとなりました。
そこで、また狂歌にうたわれるのです。
下様(しもざま)のよるもさわるもびくついて
早半鐘のいまかいまかと
そのような中、1854年(安政元年)日米和親条約が結ばれた時、なんと吉田松陰は下田港に碇泊中のアメリカ軍艦めざして、1艘の小舟で漕ぎ出すのです。
松陰24歳、もう一人は金子重之助23歳。
アメリカに渡り外国の様子をよく知ろうとした2人は失敗。
金子重之助は病気になり牢で亡くなったのは翌年1月11日でした。
それ以後松陰は死刑になる30歳までのほとんどの期間を牢の中で過ごすことになります。
「松下村塾」で若者たちを教えたのはその間の2年3ヶ月です。
(資料:『スーパー日本史』講談社)
人のため、国のため、変動の時代に生きた松陰。
時代の香りというものがあるとすれば、幕末の香りとはいかなるものだったのだろう。