「ところで、兼好法師『徒然草』の“あやしゅうこそものぐるほし”とは、先輩たちはどのようにいっているの・・・」と竜ゴンくん。
そうだね、絵本『徒然草』(河出書房新社)で、
著者・橋本治氏の現訳は、
「退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんでくるどうでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケわかんない内にアブナクなってくんのなッ!」と。
「ワケわかんない内にアブナクなってくんのなッ!」だよ。
「うん、わからないでもないな」と竜ゴンくん。
<ちなみに、この本の帯には、
「困ったらこれを読め!! 受験も人生も全てこの一冊」とあるよ。
『少年少女古典文学館:徒然草』(講談社)で、嵐山光三郎氏は、
「たいくつしのぎに、一日じゅうすずりにむかって、つぎからつぎにうかんでくることを書くことにしたぜ。とりとめない話だから、書くわたしのほうだってへんな気分さ」
そして、「兼好のかげの声」として、「というのはまっかなうそで、これは帝王学なのだぞ。後二条天皇の皇子である邦良親王が皇位につくために、テキストを書こうと思いたった。人間の本能・本性・心理・恋愛・旅・音楽などに関して、わたしが知りえたことを書きつくそうと思っている。最初のうちは邦良親王のために王道を説いていたつもりだったが、のち、邦良親王が二十七歳でなくなられたため、当初の目的は変わって、わたしの随筆のようになってしまった。なにぶん、へそ曲がりのわたしだから、いうことが気分でかわってしまうこともあるがな。真実には二つの面があることを学んでほしい。最初の書き方も、へそ曲がりのわたしの性分だからこんなふうにとぼけてみた。わたしの話には、うらがあるからね、「かげの声」をきくように」とある。
ふむふむ。
上田三四二氏『徒然草を読む』(講談社学術文庫)では、
「では、なぜ心に浮かんでは消えるよしなしごとを書きつけるという行為が、そんなにももの狂おしいのか。それは書くことによって過去が押しよせてくるからである。捨てたはずの名利が見えてくるからである。兼好はまだ世間を捨てきっていない。略・・・」
その後には、兼好法師は書くことによって、「言いがたくもの狂おしいみずからを克服しようとしているのである。略・・・
彼は、序段ののちしだいに、“つれづれ”なるままに、ではなく“つれづれ”そのもののうちに、心の定位を求めて、金石のような断章を重ねていく」と。
うむ、「言いがたくもの狂おしいみずからを克服しようとしているのである」、
そうか。
小林秀雄氏は、その著『徒然草』(『モオツァルト・無常という事』新潮文庫)のなかで、
「兼好は徒然なるままに、徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかえって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解かり過ぎる辛さを、“怪しうこそ物狂ほしけれ”といったのである」と。
この言葉の前には、
「兼好にとって徒然とは“紛るゝ方なく、唯独り在る”幸福並びに不幸を言うのである」とある。
そして、「無下に卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない。略・・・徒然草の二百四十幾つの短文は、すべて彼の批評と観察の冒険である」と。
うゝッ、「兼好にとって徒然とは“紛るゝ方なく、唯独り在る”幸福並びに不幸を言うのである」と。
「物が解かり過ぎる辛さを、“怪しうこそ物狂ほしけれ”といったのである」と。
「徒然草の二百四十幾つの短文は、すべて彼の批評と観察の冒険である」と。
それでは、竜ゴンくんの「怪しうこそ物狂ほしけれ」は・・・どうなの・・・。
「うむ・・・」
「香りに聞こうよ、聞香も心の冒険だ」
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