「つれつれ種」上下卷『日本の古典を見る:徒然草2』より世界文化社発行
香りに聞く前に、兼好法師が「つれづれ」に書き付けたことをもう少し・・・。
如幻(にょげん)の生の中に所願皆妄想なり。
第二百四十一段
たゞ今の一念、空しく過ぎる事を惜しむべし。
第百八段
「物皆幻化」のこの世で、確かなものは、ただただ一刻一刻と過ぎ行く時の流れのみ。
そのような中、「つれづれ」は、「たゞ今の一念」によって、「存命の喜び」につつまれた時間となったのでしょう。
このような純粋時間を持ちえた男は、どのような心で物事を見つめえたのでしょうか。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。第百三十七段
「月・花をば、さのみ目にて見るものかは」
この一言が日本の新しい感性を目覚めさせたともいえます。
『侘びの世界』渡辺誠一著によると、
「肉眼によって直接事物を眺めるより、心眼によって事物の美を追求する方が興趣もつきず面白いのだ、と強調している。
心で見た場合、その物は、見る者の現実的体験や古典的教養から生じる様々な情景や感情が加わり、かなり深遠で、広大な美的存在となる。この存在には、さらに造形する者の想像力が追加されるから、その心象美は肉眼ではとうてい把握することのできない幽遠な情趣を醸し出すことになる。目で見る美しさより心で捉える美しさを重視する兼好の美感は、詞のそとがわに心の広がりを求めた伝統的な余情美を受け継ぐものであったが、現実世界の無常観に刺激されてますます深化し、内面的に精神美を讚えながら、幽玄美の成立を促すことになった」と。
そして、この第百三十七段のはじめには、あの有名な言葉が書かれているのです。
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは、雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情けふかし。
兼好は、この世にあるすべてのもの、不完全なものや不満足なものにも十全なる美を見出すことができたのでしょう。
後年、この美意識は侘び茶の開祖村田珠光のような人々に受け継がれていくようです。
考えれば、一人の男の想念が歴史の中で果たす役割というのはとてつもなく大きいのですね。もちろん、その時代にはその時代の想いとして、人々の心に忍びよっていたのでしょうが。
「ところでね、“あやしゅうこそものぐるほしけれ”は、どうなったの」
・・・あゝ、それは次にしようか。
「うむ!」
↓blogランキングに登録しています。