『芸術新潮』、最後の「ゴッホ展」より
フィンセント・ファン・ゴッホ・画「善きサマリアびと(ドラクロアによる)」 1890 油彩 クレラー=ミュラー美術館
小林秀雄著『ゴッホの手紙』によれば、
「ゴッホは、ドラクロアについて書いたT・シルヴェストルの言葉が好きだった━<偉大なる民族の画家、頭には太陽を持ち、胸には嵐を持ち、その筆は、戦士より聖者に、聖者より恋人に、恋人より虎に、虎より花に至る>
彼は、いま、頭に太陽を持ち、胸に嵐を持って、アルルの野に立つ」
以前、聞香稽古のとき、「香炉の中には嵐がある」と書いたのを思い出しました。
「自然は、この画家の精神の緊張によって荷電したように動きはじめ、その生成の劇を露にするようだ。・・・略
<自然がじつに美しい近ごろ、ときどき、僕は恐ろしいような透視力にみまわれる。
僕はもう自分を意識しない、絵はまるで夢の中にいるような具合に、僕のところにやって来る>・・・」
自然の恵みである香木の香りは、真に美しくやって来ることがあります。
そして、聞香(もんこう)の主題は、そう、「戦士より聖者に、聖者より恋人に、恋人より虎に、虎より花に至る」のかもしれない。
また、その主題は、「人間はどんな隅々までも、どんな深さまでも、見透かすことができるのだ、たとえ、色彩の段階がどんなに深かろうと」
「自然が人間に連結するのは、感覚や観念によってではない、生活を通してだ、彼の言葉で言えば《手仕事》によってである」
香炭団を灰に活け、香炉をととのえ、手の中に持つ、背筋を真っ直ぐ伸ばし、顔の正面で香りをうける。
晟聴・画 「香炉」
ゴッホは言う、「日本の芸術を研究していると、賢者でもあり哲学者でもあり、しかも才気煥発の一人の人間が見えてくる。今日、彼はどういう生き方をしているか。地球と月との距離を研究しているか。ビスマルクの外交政策を研究しているか。そんなことではない。彼は、ただ草の葉の形をしらべているのだよ。しかしこの一枚の草の葉から、やがてすべての植物を描く道が開かれる、それから季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。彼の生活は、こうして過ぎていく。略・・・
みずから花となって、自然の裡に生きている単純な日本人たちが、僕らに教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか。僕は思うのだが、君がもし日本の芸術を研究するなら、もっと陽気に、もっと幸福にならなければだめだ。僕らは、紋切型の世間の仕事や教育を棄てて、自然に還らなければだめだ。・・・僕は日本人がそのすべての制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する。けっして冗漫なところもないし、性急なところもない。彼らの制作は呼吸のように単純だ。まるで着物のボタンをかけるとでもいう具合に、僅かばかりの筆使いで、いつも苦もなく形を描きあげる。ああ、僕もまたいつかは、そんな具合に、描けるようにならねばならぬ」
僕たちは、なんと遠くに来てしまったのか・・・。
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