元日の昼過ぎ、陽光に誘われて散歩に出かけました。
丘の上に小さな野菜畑があり、お面をつけた案山子がちょっぴり寂しそうに立っていました。
その顔を見たとき、彼がここではなく舞台や宴会の席でにぎやかに踊っていたであろう姿を想像しました。いまでは、丘の上で天地と友になり畑を守っているのですね。
それもまた幸せなことかもしれません。
お面といえば、いつか能の面をつけ、何者かに乗り移られて香をたいてみたいと思ったことがあります。
香の道も能楽も、室町時代に端を発します。
その室町時代について、小林秀雄氏は、
「室町時代という、現世の無情と信仰の永遠とを聊(いささ)かも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している」と。
目に見えるものは、戦乱と飢餓、そこに生きる人の心は目に見えない。
その心の底には「現世の無常と信仰の永遠とを疑わない精神」が確固としてあったという・・・
また、
「無用な諸観念の跳梁(ちょうりょう)しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何の疑わしいものがない事を確かめた」と。
『能』発行:ピェ・ブックス
世阿弥は言う、
“物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし”と。
美しい“花”がある、“花”の美しさという様なものはない。とは小林秀雄。
そして、
「不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい。彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいのかも知れぬ」とも言われる。(『無常という事・当麻』小林秀雄著 新潮文庫)
そうか、不安定な観念に悩まされるようなやくざな素顔は、お面で隠してしまうのがいいのかもしれない。
観念といえば、ピカソの次のような言葉がある。
「近代絵画に関して、探究という言葉が重んじられているわけだが、私には解らない。
そんなものは絵に於いては、無意味だ。見つけるという事が大事なのである。
私の仕事の上で目指している事について、私が探求の精神をもっているという話ほど、ひどい嘘はない。
私が目指しているのは、見つけた物を示そうとする事であって、探求しているところを示そうとする事ではない。
探究という観念のお陰で、絵画は、屡々(しばしば)道に迷い、画家は考え込んだ。これは恐らく近代絵画の最大の欠陥である」(「声明」1923年『近代絵画』小林秀雄著)
『PICASSO』発行:TASCHEN
聞香:香りに聞いていく“心の旅”の世界もこれに似ているだろう。
先入観や観念ほど、「香り」から遠いものはない。
しかし、いつもゆさぶられるんですね。
中途半端な観念に・・・。
美しい「香り」がある、「香り」の美しさの様なものはない。
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