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香りに聞く
作曲家であり、ピアニストの松浦美佳さんが聞香の稽古に参加され、その時の体験をご自身のブログ「みかんばこ」に書いておられます。
その体験された想いを転載させていただきます。


松浦美佳「みかんばこ」より

香りに聞く
日本の伝統芸能である「香道」。
一定の作法に従って香りを楽しむことを「聞香」といい、字の通り、香りは「嗅ぐ」のではなく、香りに「聞く」のだそうです。
なんて優しくて思いやりのある響きなのでしょう。
それを知っただけでも、興味が沸いてきました。

友人のクロケンさん&maoiさん夫妻が、「アーティストには凄くいいと思うよ。」と香道研究家の伊達晟聴先生のお教室に誘ってくださったので、初めてその世界に触れることができました。
今日のテーマは「鑑真」。
鑑真は8世紀半ばに、仏教の戒律を教えるために中国から来日したお坊さんです。
歴史の授業でやったはずだけど、もうすっかり何もかも忘れていました。
その「鑑真」をテーマと伺って、鑑真のことを何も知らないのに困ったなぁと思いました。
でも、伊達先生が、鑑真が大切にしていた言葉をわかりやすく説明してくださいました。
「山川異域、風月同天」
山川域を異にするも、風月は天を同じくする。
つまり、場所は変わっても心は変わらないという意味だそうです。
その言葉により「風」「月」「天」の3つに分けて、それぞれに違う香木をご用意していただき、その香りを聞いてイメージしたものを紙に書き、一人ずつ発表します。
俳句を書く人もいれば、独自の言葉を使う人、絵を描く人、様々です。
本当は、香りから自由にイメージして良いのですが、なぜテーマを設けるかというと、同席した人達と「共通項」を持つためなのです。
それぞれがイメージしたことを通じて、お互いにコミュニケーションをとるために、テーマが必要なのです。
もっと厳しくて堅苦しい世界なのかと思っていたのに、コミュニケーションをとることが目的と伺って、とても嬉しい気持ちになりました。
また、お作法も何もわからなかったのですが、間違えても丁寧に教えていただき、心配要りませんでした。

さて、私が香りからイメージしたもの。
それは、時空を超えていました。
前世なのかな?とても昔の自分を思い出しました。

(風)のお香からは、湿原を覆うオレンジの夕焼け空を見ながら、ありふれた日常と自然に感謝している私が見えました。
(月)のお香からは、インドの川のほとりで大きなお月様を見ながら、お釈迦様の誕生を祝い歌う自分の姿が見えました。
(天)のお香からは、ヴィジュアル的なイメージは見えませんでしたが、声を聞きました。「苦しみもあり、安らぎもある。」という声です。
苦しむことがわかっていても、何度も生まれ変わった私。
「だけど苦しんだばかりでなく、ちゃんと愛に救われてきたんだ!」という感覚を思い出したのです。
そうしたらとても感動してしまって、香道の席で「ダーっ!」と涙がこぼれてきました。
しーんとしている場で、鼻水をすする私の音。。。
鼻水のせいで、香りが途中からわからない!!!
香道で泣く人、いるんでしょうか(笑)
お恥ずかしい限りですが、「前世が見えました」という私の突拍子もない告白を普通に受け入れてくださった皆様、ありがとうございました(照)

日本人なのに日本の伝統芸能を知らない、、と今まで寂しく思っていましたが、初めての私でも引き込まれてしまった「香道」という世界。
世界は違えども、音楽と通じる感覚を味わいました。
「生きていることに感謝」
この気持ちで心がいっぱいに満たされました。



松浦美佳さんの香りに聞く世界も素敵ですね。
うれしいです。ありがとうございました。



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| 香道 | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
香りに聞くということ
表紙
『自分時間』リイド社

2年前、雑誌『自分時間』に、「和の嗜み」という特集があり、原稿を書かせていただいたことがあります。
タイトルは、「香りに出会う、人に出会う、和の心(やわらかのこころ)」です。

その中で、聞香(もんこう)、香りに聞くことについて述べているところがあります。
最近、聞香という言葉について書いてほしいといわれましたので、この原稿から少し抜書きしてみます。


中『自分時間』特集頁より

香道では、“香りに聞く”という。ここが重要だ。嗅ぐのではなく“聞く”、そして、“を”ではなく“に”だ。それを≪聞香≫という。
 大いなる自然の恵みである香木の香りに融けあうには“に”の心が大切なのだ。
 初心者の頃、香の先輩にたずねた。≪聞香≫というのはと。先輩は若い頃から香道志野流を習っておられた。「私も若い頃、おたずねしたの、先代の家元に」そのとき、目は潤みはじめていた。「おやさしかったわ」、遠いところを見つめるように先輩は言われた「そう、香りに聞くんだよ、とおっしゃったの」
 その時、なにかが胸の奥ではじけた。言葉では伝えきれないものがある。それがこのことだ。先輩の声の抑揚、顔の表情から、トータルに伝わってくるもの、泪とともに。
 直感した、大切なのは受け入れるという心だ、すべてを。
無垢の心で森羅万象を、人の心を“香りに聞いていく”。そうしなければ大切なものは聞こえてこないのだ。

写真にそえていただいた編集者の素敵な言葉があります。

 香りに導かれ
 洒脱な生き方ができれば・・・、
 まず、隗より始めるとするか



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| 香道 | 16:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうひとつのこと
前回の中国民話『ね、うし、とら・・・十二支のはなし』(ほるぷ出版)ですけれど・・・。

十二支の第一番目を町の人々に決めてもらうことにして、ねずみとおうしを町中の人々に見せて歩くことになりましたよね。
おうしは賛成し、町のひとびとが自分をほめそやすことばがきこえてくるようだったそうです。

その時にねずみのとった行動は・・・。

ねずみというと、自分は小さくて町の人には見えないだろうと、さめざめと泣き、自分に魔法の力があったら、自分を大きくして、みんなに見てもらえるのにと訴えます。

シュン・ユーは、おうしに話してねずみを2倍の大きさにしてやりました。
おうしは、反対しなかったのです。ねずみが2倍になったとしても、自分はまだねずみのなん百倍も大きかったからです。

町に出かけました。

どうなったでしょう。


結果は、そうです、ねずみがえらばれたのです。


絵本では、
「みろよ!」だれかがさけんだのです。
「あんな大きなねずみを、いままでにみたことがないぞ」
人々は大きなねずみに驚きました。
けれども、うしに気にとめる人はだれもいませんでした、ということなんです。
このていどのうしなら、どこでもみられたからです。
しかし、しかし、2倍の大きさのねずみは、誰も見たことがなかったのです。

そこで、シュン・ユーは人々にたずねます。
あたらしい暦のはじめにおくのは、ねずみがいいか、うしがいいか。
人々は驚いて聞き返すのです。
「牛ですって?わたしたちは、ねずみしかみませんでしたよ。大きなねずみを!」

こんなわけで、十二支では、一番目にはねずみが、うしは二番目になったのだそうです。


う〜ん、驚きがないと人は<もの>がよく見えないってことかな。



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| 香りの冒険者 | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうひとつのキャラクター
表紙『ね、うし、とら・・・十二支のはなし』ほるぷ出版

このブログのもうひとつのキャラクターを作ろうかと思い、息子に十二支の本を持っていないかと聞くと、この本を貸してくれました。

中国民話のお話です。
ドロシー・バン・ウォアコム 文、エロール・ル・カイン 絵、
へんみ まさなお 訳、のとても素敵な本です。



 干支

話の内容は、「中国の皇帝は頭をなやませていました。半神半人のシュン・ユーが、新しい十二支のために12種の動物をえらんだものの、第一番目となって他の動物を支配する動物を決めかねていました。
ねずみは自分の賢さを主張し、おうしは強さを主張しているのです。
議論で決めようと、皇帝は他の動物の多数決を求めましたが、5対5にわかれて決まりません。
そこで、シュン・ユーは、十二支を使う立場の町の人々に決めさせたら・・・・・と提案し、ねずみとおうしを町中の人々に見せて歩くことにしました。
さて結果はどうなったでしょうか・・・・・。
中国民話にもづいた機智あふれたお話をみごとにル・カインが絵本化しました」というような楽しいお話です。



街


さて、どちらが第一番目に選ばれたのでしょう。
おわかりですよね。
でも、なぜでしょう。



ブログ・キャラには誰を選ぼうか。
選んだら、自分なりに創作し、愉快な魂をいれたいものだ。



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| 香りの冒険者 | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香について
写真・晟聴seicho

最近、ふと心をよぎることがある。

香りに聞くとき、その感覚の抽象力。

そして、有情。



写真・伊達晟聴seicho


<一定の作法のもとに香木をたき、香りの中に文学的雰囲気を鑑賞することにより人間形成をはかる。香道では、香りを嗅ぐことを「聞く」という。嗅覚を主役にし香りに無限な世界を「聞く」のである。>と習ったが・・・。


それにしても、香りはあまりにも生々しい。


この芸道の根底にある日本人の無意識の魂はいかなるものか。


ピーター・ミルワード氏の著作『お茶の巡礼・茶の道』では、

「日本では、あらゆるものから<芸>が生まれるかと思える。
きっと日本人ほど芸を解し、重んじる国民はないからだろう。
とくに昔はそうで、古くからの伝統芸などはその現われだ。
剣で戦うこと、筆で書くこと、そしてお茶を飲むこと・・・すべてが芸になる。

<道>という思いを字にして加えたとたん、すべては身心の躍動となって現われる。

茶道がいう道とは、人が真に生きる道である。
技をきわめる<芸道>にとどまらず、人が歩むべき<人道>でもあるのだ。
お茶を飲むのは、たくさんある人間のいとなみの一つにすぎない。
しかし、そのたった一つのことに人生のすべてが託されている。
すべてに通じる一筋のいとなみだからこそ、道と呼ばれる価値がある。
まさに、いっさいを象徴した縮図といえるだろう。

仕事などで疲れたときも、一休みして一杯のお茶を飲む。
すると、心地よい活力がまたわいてくる。
思わず声をもらすときだってあるだろうー“ああ!”
その“ああ!”にこそ茶の道の原点があると私は思う。

ものごとを見つめなおす気持ち

人を新たな境地へといざなう道である。
茶道の究極は、一杯のお茶を飲むことに、一つの<悟り>を見いだすところにあると思う。これこそが“ああ!”という声になるはずだ」



<香りと人生>はいかなるものになるのか。

<身を治め心を正すところに、香の真髄がある>とは、古人の説くところ。

夫香の道たるや、和歌により禅教にもとづく事明らけし 
                           (『香道真伝』)
  

画・晟聴seicho


この香炉に、
今日は<月>をのせよう。
かぐや姫の故郷を!


そして、<悟後の精進>を大切にしょう。


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| 香道 | 16:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香稽古1月:『竹取物語』ー4  かぐや姫と“いまはむかし”
かぐや姫1
『竹取物語』切り絵:宮田雅之 講談社インターナショナル発行


此子、いとおほきになりぬれは、名を、みむろといんへのあきたをよひて、つけさす、あきた、なよ竹のかくやひめとつけつ・・・



その娘がいよいよ大きくなったので、爺さんは三室戸斎部秋田を呼んで、その名をつけさせた。(三室戸斎部秋田というのは、三室戸が地名で斎部秋田が姓名である。)秋田は彼女に『なよ竹のかぐや姫』という名をつけた。
(かぐや姫とは『輝夜姫』あるいは『赫映姫』で、夜も輝く、あるいは照り映えるというような意味であろう。)この名前をつけた三日間というものは、翁は、祝いのために宴会を催して、いろいろの歌舞音曲をやり、男女を問わず人びとを呼んで大宴会をした。
(川端康成:現代訳)



「三室戸=御室戸(みむろど)」は神を祭る所の意。
「斎部(いむべ)」は祭祀を掌る氏族。
「秋田(あきた)」は豊穣を表わすめでたい名。


「なよ竹」は竹のように細くしなやか女性を連想させる語。

「かぐ」はカガヨフ・カギロヒと同根でキラキラ光る意。

カグヤヒメという名は、垂仁天皇の妃にカグヤヒメノ命という人物の存在が『古事記』にみられます。
このカグヤヒメの叔父は、讃岐垂根(さぬきたりね)王という名前です。
竹取の翁も、讃岐造麻呂ですね。
カグヤヒメノ命は大筒木垂根王(オオツツキタリネノミコ)の娘とされ、
その祖先は竹野媛(ヒメ)なのです。
現在の京都府中郡から竹野群にかけて勢力を張っていた豪族の出身とおもわれます。
そうならば、竹の筒の中から生まれるという想像と結びつくというものです。


たくましい想像力をはばたかせて、今、新しい物語を生み出そうとした作者も、
『古事記』の伝承に興味を示し、

古い記憶に新しい物語を

根づかせようとしたのです。

資料:『竹取物語』新潮日本古典集成)



そういえば、この『竹取物語』は、「いまはむかし」ではじまります。
「むかしむかし」ではないのです。


「今ハ昔ダ」なのです。


『竹取物語』新潮日本古典集成の解説「伝承から文学への飛躍」野口元大著では、

「今は昔」の意味は、簡単に言えば、「今」とは、語り手と聴き手が向かい合っている物語する場なのである。
語り手も聴き手も、日常現実の世界においては利害の対立や対人関係の思惑などで日夜身をすり減らしている人間かもしれない。

しかし、「今」こうして物語の

場に出席した以上は、

そうした日常の現実から遮断

(しゃだん)された、

一種抽象の世界に身を置いた

わけだ。

ここでは日常は閉め出され、


われわれは新しい感覚に

目覚めるのを感ずることがで

きるだろう



さあ、日常を閉め出したついでに、その新しい感覚をもって「昔」の世界へ行ってみよう。
なに、むずかしいことではない。

目を閉じて物語の世界に没入すればよいのだ。
さあ、もうわれわれは「昔」にいる。昔の物語の世界だ。
以上、野口元大著



いやぁ! まさに観香世界、心の旅だ。

そう、目を閉じて、物語と香りの世界に没入すればいいのだ。

『竹取物語』は、それを体験させてくれる。
そこには、人間の深い“生”が見える。

“宇宙の情動と一つになる”ような感動が出現する。

さあ、静かにしずかに香りに向かおう。


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| 香道 | 17:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピカソ
ピカソ3『PICASSO』TASCHEN発行


1935年に
“私の場合では、絵は破壊の総計である”


と言った人が、
こんな美しい人を描いている。


「画家の手を離れれば、絵という結果は、
彼の言葉で言えば、

“時と場所と見る人の精神状態とが、仕上げをするだけだ” 」

(小林秀雄著『近代絵画・ピカソ』)

2007年1月、「仕上げをする、時と場所と見る人の精神状態」は、
どうなっているのだろう。

「聞香」のときはどうなんだろう。
自然の恵みである香木の香りに心をかたむけ、
仕上げをするぼくたちはどうだろうか。

その“時と場所と香りに聞いていく人の精神状態は・・・”


今年は、なんだか面白そう。
楽しそうじゃあないか。


いま一度、世阿弥風に聞香の心を・・・

美しい「香り」がある、「香り」の美しさという様なものはない。

利休風に、

灰をととのえ、香炭団をおこし、ただただ香に聞くがよろし・・・

西行風に、

香に聞きて、心なき身にもあはれは知られけり・・・

ピカソも見ているよ。

『PICASSO』TASCHEN発行 Self-Portrait,1907

1907年のピカソ。
2007年のわたくしたちの自画像はどんな様なんだろう。


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| 香りの冒険者 | 14:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
お正月に感じたこと
kakasi

元日の昼過ぎ、陽光に誘われて散歩に出かけました。
丘の上に小さな野菜畑があり、お面をつけた案山子がちょっぴり寂しそうに立っていました。
その顔を見たとき、彼がここではなく舞台や宴会の席でにぎやかに踊っていたであろう姿を想像しました。いまでは、丘の上で天地と友になり畑を守っているのですね。
それもまた幸せなことかもしれません。


お面といえば、いつか能の面をつけ、何者かに乗り移られて香をたいてみたいと思ったことがあります。

香の道も能楽も、室町時代に端を発します。

その室町時代について、小林秀雄氏は、
「室町時代という、現世の無情と信仰の永遠とを聊(いささ)かも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している」と。

目に見えるものは、戦乱と飢餓、そこに生きる人の心は目に見えない。
その心の底には「現世の無常と信仰の永遠とを疑わない精神」が確固としてあったという・・・

また、

「無用な諸観念の跳梁(ちょうりょう)しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何の疑わしいものがない事を確かめた」と。


能面1
『能』発行:ピェ・ブックス

世阿弥は言う、

“物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし”と。

美しい“花”がある、“花”の美しさという様なものはない。とは小林秀雄。

そして、

「不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい。彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいのかも知れぬ」とも言われる。(『無常という事・当麻』小林秀雄著 新潮文庫)


そうか、不安定な観念に悩まされるようなやくざな素顔は、お面で隠してしまうのがいいのかもしれない。

観念といえば、ピカソの次のような言葉がある。
「近代絵画に関して、探究という言葉が重んじられているわけだが、私には解らない。
そんなものは絵に於いては、無意味だ。見つけるという事が大事なのである。
私の仕事の上で目指している事について、私が探求の精神をもっているという話ほど、ひどい嘘はない。
私が目指しているのは、見つけた物を示そうとする事であって、探求しているところを示そうとする事ではない。
探究という観念のお陰で、絵画は、屡々(しばしば)道に迷い、画家は考え込んだ。これは恐らく近代絵画の最大の欠陥である」(「声明」1923年『近代絵画』小林秀雄著)


ピカソ1
『PICASSO』発行:TASCHEN

聞香:香りに聞いていく“心の旅”の世界もこれに似ているだろう。
先入観や観念ほど、「香り」から遠いものはない。

しかし、いつもゆさぶられるんですね。
中途半端な観念に・・・。

美しい「香り」がある、「香り」の美しさの様なものはない。



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| 香道 | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
観香新年(かんこうしんねん)ー1
表紙1『竹取物語』 川端康成:現代語訳 ドナルド・キーン:英訳
 宮田雅之:切り絵 発行:講談社インターナショナル

新しい年になりました。

「観香新年」です。


「観」とは、自身の内と外の世界を同時にみつめ、聞いていくこと。


自在に香りにまかせて・・・
あらゆる声を聞き取っていく聞香(もんこう)!



無尽意・・・尽きぬおもいを香りにのせて生きていく者になりたい。



聞香稽古の主題は、川端康成の現代訳『竹取物語』からはじめたい思います。


その本の帯には次ぎのように書かれています。


「ノーベル賞作家の現代語訳と傑出した芸術家の作品と、
日本文学の研究に一生を捧げたジャパノロジストの翻訳が合体した
空前絶後の『竹取物語』」
 そして、
「・・・現在、『竹取物語』は児童文学になってしまい、挿絵のかぐや姫はシンデレラのような無邪気な少女として描かれ、彼女の一番の特徴である冷酷さはどこにも現われていない。・・・ ドナルド・キーン氏 序文より」

「おとなのための『竹取物語』ここに誕生!


ということで、どのような“かぐや姫”が香りの中に現われてくるのでしょうか。
本当に楽しみです。


竹と翁1『竹取物語』宮田雅之:切り絵より


さあ、はじめましょう。
観香、心の旅を!



そして、「利休への道」へ、西行の“あはれ”をしる心へ

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| 香道 | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
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