乾漆鑑真和上坐像 国宝(唐招提寺蔵)『香道入門』淡交社より
7月の聞香(もんこう)主題は、「鑑真(がんじん)」となりました。
8世紀半ば、日本に仏教の戒律を伝えるため、
盲いてもなお「渡日弘法」に挑まれた中国僧です。
(戒と律は仏教において守らなければならない、道徳規範や規則のことです。)
そもそも、なぜ、日本は鑑真の来日を要請したのでしょうか。
それは、以下のことのようです。
「当時の社会不安と仏教界の混乱が大きな背景となっている。
仏教公伝は538年とされているが、7、8世紀にかけて、その戒律を普及できるところまでいってはいない。
いちばん問題なのは、僧と尼になる農民たちが急増したことであった。
律令が強化され課役に苦しむ農民が、われもわれもと僧尼志願したのである。
なぜなら、僧尼になれば苦しい課役が免除されたのだから。
といっても、仏を知らず、経を顧みず、礼仏の作法もわきまえぬ僧尼ふえたらどうなるのか。
あやしげな祈祷が流行し、おかしな説法が重宝がられても、
仏教の心は広まりはしない」
そのような中で聖武天皇の大仏鋳造の計画が始まることになるのです。
「しかし、仏教本来の戒律を守り、これを広める仏徒はいなかった。
仏をつくって魂を入れない律令国家となってしまう。
そこで、きびしい戒律を受け、それをパスした僧だけを正式の僧として認める組織化が必要であった。
戒を授ける資格の僧、それは、先進国・唐に求める以外には実現しないことであった」『歴史紀行 鑑真の道』柴田勝彦著より
そういうことだったのですね。
鑑真和上は、苦難の末、日本に来られた折に、
香木とともに薫物(たきもの)を伝えられたといわれています。
薫物とは、沈香を粉末にし他の香の材料も調合し、
密や梅肉などで練り合わせたものです。
練香といわれ、調合の仕方によりそれぞれ銘がつけられています。
正倉院 香道具 紫檀金鈿柄香炉(部分)『香道入門』淡交社
練香は仏教儀式に用いられましたが、
平安時代には貴族の間で薫物合(たきものあわせ)として、
香りの優劣を競う遊びがおこなわれるようになりました。
また、着物にたきしめたり、部屋にも香りをと、
生活の中で楽しむようになったのです。
源氏物語画帖「梅枝」土佐光則筆(徳川美術館蔵)
『香道入門』淡交社
薫物合を始める前、光源氏と判者をつとめる兵部卿の宮のやりとりを描く。
沈香でつくった箱に、「六種(むくさ)の薫物」の一つ、「梅花(ばいか)」を入れて梅の一枝を挿した壺と、冬の香「黒方(くろぼう)」を入れて松の枝を挿した壺が描かれている。 『香道入門』淡交社より
銀薫炉(部分)『香道入門』淡交社
鑑真漂着の地・秋目『歴史紀行 鑑真の道』柴田勝彦著
発行所:新日本教育図書株式会社
鑑真和上について、よい本はないかと図書館に出向きました。
そこで、『歴史紀行 鑑真の道』柴田勝彦著に出逢ったのです。
“はじめに”のところで、常日頃、聞香(もんこう)の主題を決める時に、感じていたことが書かれていました。
すこし長くなりますが、引用させていただきます。
とても大切な内容が述べられていると思います。
「生きることの厳しさ、恐ろしさを忘れて過ごす日々の果て、
粉塵のように消亡する、これが人のいのちの軌跡ではあろう。
といっても、
すべての軌跡の波にはわずかでも、起伏があり、光も影もあるはずで、
それは、その人だけのものである。
人間は、生と死の軌跡を点滅しながら、歴史の証しを織り成してきた。
歴史は、風濤の動きに似て、時には悦びと平和の穏やかな相貌を持ち、
また時には、哀しみと狂乱の険しい姿態を持っている。
その顔は変化してやまず、まるで、のっぴきならない法則の鎖に繋がれているかのように思える。
そして、それを担うものは確かに、はかない生の軌跡しか描けない人間である。
力量以上の踏ん張りをするでもなく、むしろ、放恣な暮らしを続ける中ででも、
目くるめく射光にたじろぐことがある。
路地裏の野草であったり、飾り気のない童児の瞳であったり、
遺された芸術品の妖美であったり、いろいろだが、
したたかな閃光、微光は、心を貫き、身をすくませてしもう。
たじろぎ、すくんだ気持ちから、ふっと、立ち上がろうと身構えたりする。
射光の光源が、特定の歴史上の人物である場合、なす術はないかに思えてくる。
炬火は近寄ることを許さず、心の距離感は遠くなるばかりだ。
それなのに、却って、光りの輝きは増してゆく。
こんな光源の人として、八世紀の中国僧・鑑真がある。
千二百年前に日本に渡ってきた」
この言葉に出会うために「聞香・鑑真」があるのかもしれない。
鑑真は、688年、揚州に生まれました。
742年、55歳のときに、
日本人の僧・興福寺の普照と栄叡から戒律を伝えて欲しいとの要請を受けました。
「願くは、大和尚東遊して化を興したまへ」(『東征伝』)
「是れ法事の為なり。
何ぞ身命を惜しまん。
諸人去らずんば我即ち、去らんのみ」
と。
渡海は5回挫折。
12年後の6度目、753年についに実現。
薩摩の秋妻屋浦(鹿児島県川辺郡坊津秋目)に漂着されました。
鑑真は67歳になっていました。
一回目以来、12年。
脱落者は20人。
死者は36人。
「鑑真大和上滄海遥来之地」の碑 秋目海岸 『鑑真の道』より
そのとき、衣の襟に、
「山川異域、風月同天」
(山川域を異にするも、風月は天を同じくする。)
と誌しておられたといわれます。
場所が変ってもも心は同じなのです。
この魂が、鑑真和上の生き方の強靭さをもたらしているのでしょう。
揚州も日本の唐招提寺の地も、鑑真にとっては「同じ心」の風土だったのです。
ここが凄い。
こうでありたい。
鑑真創建の唐招提寺 「天平の甍」を持つ金堂 『鑑真の道』より
後年、俳諧の芭蕉は句を詠みます。
それは、『笈の小文』にて、
招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、
御目のうち潮風吹き入りて、ついに御目盲させたまふ尊蔵を拝して、
若葉して 御目の雫 ぬぐはばや
乾漆鑑真和上坐像 国宝(唐招提寺蔵)『香道入門』淡交社
香りに聴いてみましょう、
その強い意志力、
そして、積極的人生を。
鑑真和上の大いなる魂を。
どのような香りになるだろう。
↓blogランキングに登録しています。