束帯天神像 神奈川・荏柄天神社『天神さまの美術』より
九世紀・平安時代初期の“詩人にして、政治家”菅原道真の漢詩を読みながら、
目頭が熱くなりました。
昨日のことです。
その詩は、妻と子の身を想い、苦悩するものです。
「傑出した詩人であり、比類ない学者であり、国家の最高権力者の地位まで昇りつめたのち、劇的に失脚し、追放の身となって無念な死を迎えた古代日本最高の文人政治家、菅原道真」
藤原氏一族の恐るべき陰謀によって、
まったくの無一物の状態で九州大宰府へと追いやられます。
北野天神縁起絵巻
時に、五十七歳。
あとニ年の命でした。
彼は、都に残っている妻を日がな思いだします。
やっと、待ち焦がれた妻からの手紙が来ました。
そのときの詩がこれです。
消息寂寥三月餘
便風吹著一封書
西門樹被人移去
北地園教客寄居
紙裏生薑称薬種
竹籠昆布記斎儲
不言妻子飢寒苦
爲是還愁懊悩余
消息寂寥たり 三月餘
便風吹きて著(お)く 一封の書
西門の樹は人に移されて去りぬ
北地の園は客をして寄り居らしむ
紙には生薑(しょうが)を裏(つつ)みて薬種(やくしゅ)と称し
竹に昆布を籠(こ)めて斎(いもひ)の儲(まう)けと記せり
妻子(せいし)の飢寒(きかん)の苦しびを言はず
これがために還りて愁へて 余を懊(なやま)し悩むすなり
消息のない寂寥の三月余りが過ぎて
やっと順風が吹いて来た 封書が一通
読めば わが家の西門に植えた樹は人に抜き去られ
北の庭の空地には 新たに人が住み込んだ
紙に生薑(しょうが)を包んで「薬」と表に書いてある
竹かごに昆布をつめて 精進の食べ物と記してある
妻や子の飢えと寒さの苦しみには 一言も触れていない
このためかえって憂愁は増し 私は懊悩する
これを読んだ時、感情が一気に高まり、
道真の横にいるような気がして・・・涙なのです。
大岡さんは「感動的な詩です。私たちはこのような詩によって、
政治犯の家族たちの苦しみを、まるで現在そこで生じている出来事そのものとして感じます」と述べられています。
「追放された時、家族はむざんに引き裂かれました。
妻と年長の娘は京都の家に残されましたが、長男は土佐に、
二男は駿河に、三男は飛騨に、四男は播磨にと、それぞれ
きわめてかけ離れた土地に追放され、道真自身は幼い男子と
女子の二人を連れて、惨憺たる西国への旅路についたのです。
すなわち一家は一時に六ヶ所へ引き裂かれてしまったのです。
幼い二人の子供は、たぶん九州の地でまもなく栄養失調のために
死んでしまったことでしょう。
道真自身も体は丈夫ではありませんでした。
憤怒と絶望に加えて、体のいちじるしい衰えによって、彼は死んだのでした」。
大岡信著『日本の詩歌』講談社
道真の死は、何をもたらしたのでしょう。
京の都では、長い間にわたって不幸が起るようになりました。
北野天神縁起絵巻
宮中の清涼殿に落雷があり、道真追放のため暗躍した廷臣たちを殺生。
北野天神縁起絵巻
人々は恐れました。
怨霊を鎮めるため、死後二十年すると、彼の立場は復権され、
さらに一世紀近くなると神として祀られました。
現在では、「天神さま」として日本各地に祀られています。
道真は、常に孤独な政治的状況の中にいたと思われます。
本来政治の家の出身ではなく、さして裕福でもない学者の家に生まれたのです。
菅原道真は時代の深淵を身に背負って生まれてきたといえます。
今、道真は「学問の神さま」として受験生達には人気ですが・・・。
当時、男性達は「漢文」で物事を表現していました。
道真はすばらしい「漢詩」をつくり、為政者の不正や、腐敗を糾弾した詩人です。
それは、漢詩だからできたといえます。
時代は、仮名文字や片仮名を生み出し、文化や、そこに生きる人の心に、その表現の様式に変化をもたらしていきます。
彼より、一世代後の詩人達は、仮名文字で、日本の話し言葉である大和言葉によって「和歌」を書くようになりました。
勿論、道真も和歌を詠ってはいますが、彼の時代から、日本は中国文明の影響を脱しつつ、日本独自の文化を意識的に創造しはじめたのです。
それは、およそ、八世紀から十二世紀末までの四百年間にわたります。
それを、歴史上の呼び名では「平安時代」と呼ばれます。
以上のことの多くは、
大岡信さんの著書『日本の詩歌』からの抜粋し、
構成させていただきました。
『日本の詩歌』大岡信著講談社
ぜひ、お薦めしたい本です。
大岡さま、いつもありがとうございます。
では、「聞香・道真」を、香りに菅原道真の心を聴いてみたいと思います。
この世に生をうけるという事は、
どういうことなのでしょうか。
考えてしまいます。
香りは、なにを指し示すでしょうか。
↓blogランキングに登録しています。