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聞香とは人生のすべてが参集する世界です:写真「舞態・田中泯」
seicho
『舞態・田中泯:カメラ毎日』

ブログの最初の友人である画家・佐藤久美子さんが、
本の装丁をされました。
その時に、“僕も工作舎にいて出版の仕事に携わったことがあります。
なつかしい世界です、田中泯さんの写真なども撮っていましたよ”
などとコメントしたところ、
その頃のことを話して欲しいとのことです。

よし、と思いまして、写真を載せることにしました。
佐藤さんは舞踏が大好きなのです。

写真は、『カメラ毎日』に掲載したもの。
写真を撮っていた頃は、名前は「佐々木渉」でした。

当時、オブジェ・マガジン『遊』の編集長をしていた松岡正剛さんの「作品によせて」が同時に掲載されました。
それをお借りしてここに載せさせていただきます。


seicho


「作品によせて」 松岡正剛   
佐々木渉 『舞態』ー特異点がやってくる時ー

前段がありますが、省かせていただきます。

私は日々「イリュミナシオン! イリュミナシオン!」とつぶやいていた当時の佐々木渉を知っている。
大学の写真部を出て、仲間とともにスタジオを共同でつくっていたころのことだ。
驚くほど繊細な神経組織が表情や手指の外にまで滲み出ているような男だった。
その一方、自分の美意識に挑むかのような仕掛けで、
痛烈な力学を内部に採りこもうとしている姿勢も顕著であった。
その後、彼の日立のキャンペーンやトヨタのキャンペーン写真が
新聞雑誌を飾っていた期間、私は佐々木渉から遠かった。

ふたたび突っ込んで接触しはじめるのは、
彼の工作舎入りが果たされてからのことである。

佐々木渉が“体表舞踏家”として知られる田中泯を執拗に撮りはじめたのは2年前になる。
私はそのみっちりした写真を通して田中泯の体表のなんたるかを感知し、
その力学的微妙を映像的媒介として、やっと実物の「踊る体表」に介入していった。
以来、200枚以上の「舞態写真」のプリントが私を通過したろうか。
当人はその10倍のファインダーからの景観を収めたにちがいない。
プリントはその都度変化していた。
あたかも田中泯の身体観念の振動とともに、実に微妙に、実に力学的に、微振動を起こしつづけていた。
そして、振動波はひとつのはっきりした事態にむかっていた。・・・略・・・

ある日、急速に特異点は訪れた。
それまで徐々に膨らみつつあった写真的上側の水力が、
瞬間、観念的下側の水力を引っぱりあげつつ巻き込んだのだろう。
驚くべき迫力の写真がうまれた。
この一枚が生まれてみると、それまでの幾多の舞態写真たちも一斉に蘇生してきたようだった。・・・略・・・

私は、一枚のプリントによって、
佐々木渉の写真の海までが脈動しはじめた、
と知った。
その一枚をふくむ一連の4枚組はこんど『カメラ毎日』に掲載された。

それにしても、写真家が「特異点迎える時」とはどのような消息がそこに殺到しているのだろうか。
私自身ではロクな写真を撮れないくせに・・・私の撮るものはおおむねわが日常的消耗を受けた事物ばかりだ・・・、多くの優れた写真家や写真に出逢えてきた幸運をもって、なんとか写真のエクリチュールからのすがすがしい放射線を受けてきた。
しかし、それだけにかえって、「究極の写真」の誕生の瞬間に対する憶測が誤ることを怖れる。
自身でたまさか暗室に入ってみたところで、こんな秘密は手に入れられるわけではない。
私にできることは、せいぜい暗室から出てきた佐々木渉の顔に、
いっさいを了解してあげられることぐらいだ。
そういう、印画紙に「大往生」を渡し込めた時の写真家から、
何かを聞き出そうというのも無駄な話だ。
彼のほうはもはや何も言うことがないからこそ、暗室を出てきたのだ。

しかし、暗室を出て一晩も過ぎれば、
写真家はまた新たな秘密に立ち向かって行かなければなるまい。
佐々木渉の、「舞態」には、田中泯の体躯を通したそんな次の意気込みまでが銀粒子化していた。


感激の一文です。
松岡正剛さん、誠に有難うございました。
感謝しております。


田中泯さんとの出逢いは、木幡和枝さんの紹介によるものです。

待ち合わせの喫茶店に入ると、
薄暗い店内の中央に、
濃密な存在感を漂わせた人物が坐っていました。
その人物に声をかける前に、
“このような存在感をもつ人を写真に撮ってみたい!”
と決心していたのです。
それが木幡さんの紹介の意図でもあったのでしょう。

写真は草月会館で撮ったものです。
庭の芝生の上で、田中泯さんの舞踏がはじまりました。
観客は遠巻きに輪になって観ていたのですが、
僕は、それが自然でもあるかのように、
泯さんに近づいていったのです。
距離は2mから3m。
手にしていたカメラはライカM3。
レンズは50ミリ、F2。
シャッター音は、静かに、“チィ”と囁きます。

望遠レンズを装着した一眼レフのニコンは、
カメラバックとともに遠巻きの輪にとり残されました。

僕自身はいつの間にか観客の目に晒されていたのです。

しかし、全感覚は、田中泯の足の親指を注視するのみです。
その親指が次の動きを伝えるのです。

動きと一体化した感覚は、ものすごくゆるやかに、ものすごくはやく、
泯さんとともにありました。

後日、次回の公演企画の人から電話がありました。
田中泯さんと一緒に舞台に出て欲しいとの・・・。
泯さんとともに舞台に登場して、僕は写真を撮る!
ビックリシマシタ!
丁寧にお断りしました。
はじめから意図して、それはできないと思ったからなのですが・・・。

いまなら、お受けしたでしょうね。
公演企画の人の考えがよくわかりますから・・・。
舞踏家と、写真家との、撮る撮られる精神の力学も、
ひとつのアートとなりうるからです。


そのときは、泯さんと1対1で写真を撮らせていただきました。
思い出します。
六本木のアートセンターで、
真っ白のホリゾントの上に、
舞態の軌跡が、あざやかに刻まれていくのを・・・
それは、まさに、ひとつの儀式だったのです。
『なにものか』に捧げる魂の・・・・・


聞香は、人生のすべての記憶が参集してくる世界です。


| 香道 | 00:40 | comments(3) | trackbacks(0) |
聞香・水の舞:多摩美術大学にて
seicho


多摩美術大学の講座「ベンチャー起業論」に呼ばれました。
石塚徹先生の講座です。
その講座の中で、
僕が、どのような経過で香道の世界にはいることになったのかを、
学生の時から現在にいたるまで、
経験した様々な出来事を通して、話をしてきました。
若い人たちが、未来を築くにあたって、
僕の経験がすこしでもお役に立てば、という企画です。
最も大切なこと、
それは、“この世は相互的な関係で成り立っている”ということを、
経験にそくしてお話したのです。

皆さん熱心に聴いてくださって感謝しております。

話の後には、楽しい香りの世界です。

聞香『水の舞』



主題となる証歌は、万葉集より

多摩川に さらす手作り さらさらに
 なにそこの児の ここだかなしき


多摩川に晒(さら)す手作りの布のように、さらさらに、
どうしてこの子はこんなにもいとほしいのか。

古代の多摩丘稜は豊かな水に恵まれ、「水のタマリで豊かなこと」が「多摩」の語源だということです。
また、多摩川流域は麻の栽培が盛んにおこなわれ、多くの布地が織り出されたのです。その特産品が律令時代の税の一つ「調」にあてられました。その名残が調布市や田園調布の地名になっているとのことです。『和歌の解釈と鑑賞事典』笠間書院より

今日の香は、「初蝶」として炷(た)かれます。

「初蝶」は、初々しい若者の象徴としました。

香木は、伽羅、真南蛮、佐曾羅

さまざまな蝶が、美しい多摩川の水面や、
豊かな森のある多摩の丘を、
楽しくひらひらと舞い飛ぶことでしょう。


聞法は、香りに聴く“いとほしきもの”です。


香炉の準備の灰手前は、三人が体験、
全員が香りに心を託しました。





静かにおちついた教室の中、
ご一緒したギタリスト小川彰さんの素敵な演奏「リムセ」の曲がながれ、
初蝶となって、思い思いの記憶の国に舞い飛んでいくという趣向です。

好評でした。

心地よく素敵な時間の中、ひらひらとお花畑の上を飛んだ人も。
心から落ち着けた人も。
癒された人も。
まるで異世界、はじめて見る世界の人も。
新鮮で日本的な感じで、心が豊かに・・・。
五感を集中させる感じがいい。
初めてなのにとてもなつかしい感じが・・・。
心を落ちつけて香に聴くと、やさしい気持ちになりました・・・。
香りと音楽でここまで心をやすらかにできるんだと知ることができてよかった。
和歌を一緒に楽しむなど文学的で素敵・・・。
聞香は全身で感じるものだった。
集中することでリラックスできるのだと思った。

僕もそう思います。

こんなせんさいなことに美を感じ、
居心地がよいと感じることができる日本はとても好きです。

ギターの音色もとてもきもちがいい。
とことんのめりこんだらおもしろいと思う。

よし、のめりこもう。
いつでも、遊びにきていいよ!


このほかにも、とてもすてきな感想がよせられました。
ありがとう。

多摩美術大学の若者にエールを!

フレー、フレー、多摩美。
     フレー、フレー、多摩美。


皆さんもいかがですか。

聞香○遊心の舞を!


| 香道 | 21:50 | comments(2) | trackbacks(0) |
聞香入門ー10:そして、『新古今和歌集』(下)の帯
seicho

いよいよ、新潮日本古典集成『新古今和歌集』(下)の
帯の文章です。
ご紹介します。

かたく誓った愛もいつしか色あせて、
今はただ涙だけが過ぎ去った日々の形見・・・
人間のいとなみの哀しさを無常の調べにのせて歌う
抒情豊かな詞華集。

たとえつかのまの夢であろうとも、
恋の歓びに身をまかせたい・・・・・
情熱の歌人和泉式部のあでやかな一首。

枕だに 知らねば言はじ 見しままに
       君かたるなよ 春の夜の夢


九十一歳で天寿を全うするまで
ただひたすら歌い続けた藤原俊成。
そのつややかな調べは日本的抒情の原質。

思ひきや 別れし秋に めぐり逢ひて
      またもこの世の 月を見むとは


二児の母でありながら夫と離別した俊成卿女。
物語的な世界へ誘うその歌には
棄てられた女の哀しみが・・・・・

通ひ来し やどの道芝 かれがれに
      あとなき霜の 結ぼほれつつ



涙だけが過ぎ去った日々の形見・・・、
人間のいとなみの哀しさを無常の調べにのせて歌う・・・、
私たちの心の琴線に、そっと触れるようにして書かれている文章は、
日本人の持つ「あはれ」、「いとほし」、「かなし」の感性を
上手に表現されています。

さすが!
この文体にも乾杯!


seicho
絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研 
和泉式部 
絵に書かれている歌は

「あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの あふこともがな」です。


枕だに 知らねば言はじ 見しままに
          君かたるなよ 春の夜の夢


枕ですら二人の恋は知らないから人に告げはしないでしょう。
だから決して人におっしゃったりなさいますな。
この春の一夜、ともに見た夢のような逢瀬を。

思いがけず恋に陥った相手に贈った歌とされていますが、

大岡信さんは、「詞書によると、男に謀られて思いもかけぬ関係をもってしまった後、男に贈ったうちの一首である。  ・・・

「君かたるなよ」、君よ他人には話すなよ。  ・・・
一首の中心はここに置かれている。

ふとした浮かれ心ゆえに関係してしまった男に、それを吹聴されるのは、恋多き女といわれた和泉式部といえども世間体を考えなくてはならなかった。
しかし、その心の動揺も、ひとたび歌となって定着されればこのように美しくひきしまった言葉となる。
和泉式部以外の何ものでもない世界が見事に形造られている。
天賦の詩才というほかない」大岡信著『古今集 新古今集』

口封じの歌が、ここまで美しく表現されるとは!
やまと歌とは、やはり凄いですね。


seicho
絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研 皇太后宮大夫俊成

俊成です。
定家の父。

思ひきや 別れし秋に めぐり逢ひて
      またもこの世の 月を見むとは

六十三歳の秋、死を覚悟して出家、
九死に一生を得た老歌人の、月に対しての感慨です。

思ってもみただろうか。
一度別れた秋に再びめぐり逢ってまたもこの世での月を見るだろうなどとは。



seicho
絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研


通ひ来し やどの道芝 かれがれに
  あとなき霜の 結ぼほれつつ


あの人が通ってきた庭の道芝も枯れ枯れとなり、
その訪れも離(か)れ離(か)れとなって、今は人の通った跡もなく、
霜が白く結ぼおれています。
それをじっと見つめているわたしの心も悲しみに結ぼおれて。


恋人の心が遠のき、訪れも遠のいた悲しさをかみしめる女の心。
俊成卿女の歌です。
(歌の解説は、新潮日本古典集成『新古今和歌集』より)

彼女は俊成の妻であり、定家の母。
そして、恋の歌の名手として尊重されていた人です。


この「新古今和歌集」には父と母との贈答歌があります。

「女に遣わしける」の詞書で

よしさらば 後の世とだに 頼めおけ
  つらさにたへぬ 身ともこそなれ


 かへしは

    頼めおかむ たださばかりを 契りにて
        憂き世の中の 夢になしてよ


なにか、ただならぬ感じですね!

竹西寛子さんの著書『日本の女歌』からわかってくることは、

「並の贈答ではない。
いかなる理由があつてか逢瀬のままならぬ辛さを訴えている。
俊成は名もない地下の歌人ではないのである。
このまま拒み通されるのなら自分はもう生きていられないだろう。
それならばそれでいい。
せめて、後世で逢おうとだけでも約束してほしい。

少し調べてみると、俊成にはすでに複数の女がいるし子女も多い。
相手にも夫があり、子息がいた。藤原為経の妻であり、似絵の信隆の母。略・・・
二人の間には、いつか、人目を忍んでの逢瀬があったと思われる。
それだけに、男の側の自己抑制はいっそう辛く、女の方は身を責めていて、
現世でのはかない夢と思い捨ててくださいという願いになる」

しかし、やがて二人は結ばれるのです。
そして、定家の誕生となるのです。

なにか、ある種の戦慄を覚えます。
運命の凄さというか、二人が結ばれなければ、はたして、この『新古今和歌集』の(上)で紹介した天才歌人・定家はこの世に生まれていなかったのでしょうか・・・!
あの、『小倉百人一首』や、『名月記』、そして、この『新古今和歌集』は、どうなっていたのだろう。

時代や人の運命、そして、人と人とのつながりには感動せずにはおれません。

深く深く、人の世のいとなみを、
香りに聴いていくことに致します。

どうぞ、ご参加を!


| 香道 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
彫刻家MOCOさんの個展
seicho
彫刻家MOCOさんの個展に行ってきました。

真っ白な会場の中、
MOCOさんは、作品と一緒に、美しく息づき、
咲いておられました。

ひっきりなしのお客さん、
初対面で、短い会話でしたが、
とても楽しく話が弾みました。

清らかな心からあふれてくる笑みが
印象的です。

ご自分では、わたしは、邪気の塊(かたまり)です、とおっしゃっていました。
だから、いいんです!
だから、美しい魂(たましい)の作品が、自ずから生まれてくると思います。

MOCOさんの作品は、
美しい魂をさずけられた未知の生命体として存在しています。


どうぞ、鑑賞の仲間入りを!

4月17日(月)〜4月22日(土)でしたが、
好評で、会期延長、24日(月)〜29日(土)も開いているそうです。
会場も変りました。
アートギャラリー銀座 11:00〜19:00
銀座2-11-4 富善ビル1F
03-3535-1185(事務所)
03-3535-1139 (会場)

詳細は下記へ

MOCO WORLD 
http://moco-world.jugem.jp/ でも作品が観れます。
LINKのスタジオ*アスタリスクからもいけます。

 

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| お知らせ | 17:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香入門ー9:新古今和歌集(上)
seicho
先日は、新潮日本古典集成『古今和歌集』の<帯>の言葉を紹介しました。

では、『新古今和歌集』ではどのように書かれているのでしょうか。
新潮日本古典集成 『新古今和歌集』(上) 久保田淳校注の
<帯>の言葉をご紹介いたします。


見果てぬ夢を追う春の曙、
橘の香に偲ぶ過ぎ去った日々・・・・・
めぐり逢っては別れてゆく人の世の哀しみを、
四季折々の風物に託して歌う流麗優艶な詞華集。


世の有為転変を見つめつつ
仏道修行の旅に生きた西行。
その歌は祈りにも似た魂の表白。


年たけて 又越ゆべしと 思ひきや
        命なりけり 佐夜の中山



咲き乱れる花もつかのまの夢。
癒されぬ心の痛みと孤独の悲しさを
歌に託す式子内親王。


花は散り その色となく 眺むれば
        虚しき空に 春雨ぞ降る



言葉への懐疑から出発、汚濁の現実を拒否した定家の歌は
この世ならぬ美の空間を創る。


春の夜の 夢の浮橋 とだえして
      峯にわかるる 横雲の空


とありました。簡潔にして詩的な詞で、古今集の世界に誘われます。
またしても、この文章に乾杯!


seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研:西行

年たけて 又越ゆべしと 思ひきや
        命なりけり 佐夜の中山


この歌には、前に詞書があります

「あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、
さやの中山見しことの昔に成たりける、思出られて」 と



白洲正子さんの著書『西行』には

「“あひしりたる人”とは秀衡のことを指すのだろう。
この時西行は六十九歳で、四十年以上も前に、
はじめて小夜の中山を越えたことを憶(おも)いだして、
はげしく胸にせまるものがものがあったに違いない。

その長い年月の経験が、つもりつもって
“命なりけり”の絶唱に凝結したのであって、
この歌の普遍的な美しさは、万人に共通するおもいを
平明な詞で言い流したところにあると思う」


と書かれています。


花は散り その色となく 眺むれば
        虚しき空に 春雨ぞ降る
                 式子内親王

seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研
癒されぬ心の痛みと孤独の悲しさを・・・
ほんとうに、そうですね・・・



以前、もうひとつの有名な歌を主題にして、
“聞香・忍ぶる恋”の香席を催したことがあります。

seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研:式子内親王

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
         忍ぶることの 弱りもぞする



わが命よ 玉の緒よ ふっつりと
絶えるなら絶えておくれ
このままこうして永らえていれば
心に固く秘め隠しているこの恋は
忍ぶ力が弱まって 思慕(おもい)が外に溢れてしまう



詩人・大岡信氏は次のように書かれています。

「忍ぶ恋が外に洩れてしまいそうな危機の瞬間の激情をうたっている。
今は忍ぶ思いを耐えつづけているが、つらさに耐えられない。
恋情がわれとわが心を裏切って堰(せき)を切って外に溢れてしまうのではないか。
それならばいっそ、わが命よ、絶えるなら絶えてしまえ、というのである」と。

大岡信箸『古今集・新古今集』学研文庫

なんとせつない歌なんだ!

この歌を、一ヶ月間、毎日、風呂に入りながらうたっていました。
“玉の緒よ〜、絶えなば絶えね〜・・・・・”
風呂では、声がよく響くのです。

そして、香席です。

香元として、お手前をし、香を聴き、二の香をおだしする時、
ふっと横に、式子内親王が現われたような気がしました。

ああ〜! これが、忍ぶる恋の香りなのだと・・・想っていると・・・

一気に目頭が熱くなって、思わず、お正客の明海和尚の方を向きました。

そうすると、和尚と目が合ってしまい、
和尚は、しずかに・・・うなずかれました「哀しい恋ですね!」と・・・



さて、
seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研:藤原定家

藤原定家です。

春の夜の 夢の浮橋 とだえして
      峯にわかるる 横雲の空


大岡信著『古今集・新古今集』では次のように述べられています。
「春夜の夢のはかなさを浮橋といったのだが、ヒントは『源氏物語』の終巻“夢の浮橋”から来ている。 略・・・
夢の浮橋とか峯に別れてゆく横雲とかは、物語の男女の世界を連想させずにはおかない。作者の意図もそこにあろう。
歌に物語の富を奪還せんとしたのである」と。


定家の意図は凄いですね。

そして、「幽玄な味わいとある種の妖艶さをあわせ持った美を得ようと骨身をけずった荘年期の定家の代表作であると同時に、彼によって主導された『新古今集』の新風を象徴的にしている作品である」

また、定家の歌には、西行の勧めによって詠ったものもあります。

西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに

見わたせば 花も紅葉も なかりけり
       浦のとまやの 秋の夕ぐれ



春なら花 秋なら紅葉
けれどこの浦に立って見渡せば
花もない 紅葉もない
ただ廓寥(かくりょう)と秋の日が暮れている
粗末な小屋のあたりに立っている
                
                    大岡信訳

見わたしてみれば、花も紅葉もないうら寂れた浜辺の小屋にいる、
しかし、心の中には美しい花が咲き、真っ赤な紅葉があるのだ、
ともとれますね。

この“わびしさ”のなかに、
「深みのある自然の本質」がある、
という心がこめられているようです。

そして、後世、この歌は、茶の湯の心としても
よく持ち出される歌となっているようです。



どの歌をとっても、心に染み入ってくる気がします。

四季折々の風物に託して歌う流麗優艶な詞華。

一期一会の香席に、
“見果てぬ夢を・・・
めぐり逢っては別れてゆく人の世の哀しみを・・・”
愛を・・・香りに聴いてゆきましょう。

どうぞ、ご参加を・・・


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| 香道 | 14:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香入門ー8:古今和歌集
seicho
この新潮日本古典集成『古今和歌集』奥村恒哉校注を購入したとき、
その<帯>に書かれた言葉にびっくり、そして、感動しました。
ご紹介します。


息をのむ趣向、目をみはる技巧、選びぬかれた・・・言葉の響き。
力の限り生きた証(あかし)を、
三十一(みそひと)文字に刻んだ人間の誇りゆえに、
千年の歳月を、古今集は生きた!

歌によって
人の世の規範を示し
歌によって
日本語の格調を守る。
わが文学史上
最大の理想を掲げ
最高の成果を収めた
古今和歌集。

紀貫之の情熱へ
小野小町の真実へ
まっすぐに立ちかえった
この本を手に、
いま、私たちは知る。
日本語の豊かさ美しさを
人生、何が大切かを。


この文章に乾杯!
この情熱こそ、日本文化の伝統を継承し、創造する力の源泉です。


力の限り生きた証(あかし)を、
三十一(みそひと)文字に刻みこんだ多くの人々。
人間の誇りゆえに・・・そのことが・・・。

そうですね、人は“力の限り生きなければ”。
そして、その証しを“文字”に刻み込まなければ!
誇りをもって・・・。


和歌は、「心の結晶」!
そして、「人生、何が大切かを」知る手がかりに。


機会があれば、紀貫之の巻頭の仮名序をぜひ・・・。
本当に素晴らしいと思います。
最初は、「やまと歌は、人の心を種として・・・」から、最後には、
「ことの心を得たらむ人は、おおぞらの月をみるがごとくに、
いにしへを仰ぎていまを恋ざらめかも」と和歌の本質、起源、技法、歴史、および『古今集』編纂の経緯などが、美しく語られていくのです。


seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研

季節は少しさかのぼりますが・・・紀貫之の情熱を!

人はいさ 心もしらず ふるさとは
       花ぞ昔の 香ににほいける


人の心は さあ知るすべもない
でもこのなつかしい家
梅の花は昔に変らず
かんばしく香って私を迎えている
人の心はさあいかがなものか知らねども

『古今集 新古今集』大岡信著

なつかしい家のあるじは、かっての恋人なのでしょうか・・・

seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研


ひとめ見し 君もや来ると 桜花
   今日は待ち見て 散らば散らなん
                       貫之


以前一度お目にかかったきりのあなたのおいでがあるのではと、楽しみにお待ちしていましたが、花盛りの今日、あなたは訪ねて下さいました。
もうこれで、この桜はいつ散っても本望です。

新潮日本古典集成『古今和歌集』奥村恒哉 校注

この気持ち、よくわかります。

う〜ん、さすが・・・
この情熱!


では、小野小町(おののこまち)の真実とは!

seicho絵で読む古典シリーズ『百人一首』学研

花の色は うつりにけりな いたづらに
      わが身世にふる ながめせしまに


なにか、じ〜んときてしまいます。

花は衰えて色あせてしまった。
春の長雨が降りつづき、私は世を過ごすための空しい心づかいに
かまけて、
花を見る余裕もなかった、そのうちに。



花と自分の恋に思いを重ね合わせているのでしょうか、
または・・・

いづれにしても、
“あはれなるようにて(しみじみとした情趣をそなえ)、つよからず。
いはば、よき女のなやめるところあるに似たり”と
選者の一人、紀貫之が古今集の仮名序で書いているがあたっていますね。



では、これらの歌の世界を、どのような香りで見立てましょうか。

人の生きた証しを、香りに聴いていくなんて・・・凄い世界です。
その人の喜びや、哀しみや、怒り、そして、愛とともに
生きることなのですから!

ご一緒にいかがですか!
聞香(もんこう)・情熱と真実の世界へ!



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| 香道 | 14:03 | comments(2) | trackbacks(0) |
聞香入門ー7:香と和歌の心
晟聴
世の中を 思へばなべて 散る花の
       わが身をさても いづちかもせむ
                      西行


世の中をしずかに思えば
すべて散りゆくはかない花の
そのはかなさのきわみのわが身を
さてどこへ運んでいったものだろう
はかないこの世に置くほかに       
           『古今集 新古今集』大岡信箸より


土曜日の花見は少し雨と風にみまわれましたが、
すてきな人たちと出会い、楽しい花見になりました。
集まったところは言問橋です。

言問橋は、在原業平の歌で有名です。


名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥
    わが思ふ人は ありやなしやと
                   

花見も終わり、橋を渡って帰るときには、花は夜空に散ってとけていきそうでした。

この夜の闇に、この身はどこへ運ばれていくのだろう。

そんな想いがして、ふと、西行のこの歌「世の中を・・・」を思い出したのです。 



また、西行の自選歌合「宮河歌合」の判定を頼んだ藤原定家の歌には、

春の夜の 夢の浮橋 とだえして
      峯にわかるる 横雲の空

とあります。

きもちよく酔っているのですが、今夜の夢の中では、
いま渡っている言問橋は、
ふっと途絶えてしまうのではないでしょうか。

どちらにしても、春の夜の夢はなやましく、そして、はかないのです。



夢に出てきたのは『源氏物語』の終巻「夢浮橋」ではありませんか。

それは、なんとも哀しくせつない浮舟の恋。

よし、来週は『源氏物語』を主題にして香に聴いていこう、
歌の心を!
まずは、やはり、物語最初の和歌を詠む「桐壺更衣」で・・・。


晟聴絵で読む古典シリーズ『源氏物語』学研より

「いづれのおほん時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなきにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり」

この書き出しから、
読む人は、はっと引きずり込まれます。
何かことが起こりそう!

“いとやんごとなきにはあらぬ”桐壺更衣は帝の寵愛をうけ、
“すぐれて時めいて”ゆくのです。

しかし、周囲の嫉妬によるいじめに耐え切れぬように、
病となって、光源氏が三歳の時に、亡くなってしまいます。



この哀しい物語の始まりを、“聞香・桐壺之香”
で組んでみました。


聞香(もんこう)桐壺之香の主題となる証歌は、

桐壺更衣が亡くなる寸前に、帝が更衣につげた言葉、
「限りあらん道にも後れ先立たじと契らせたまひけるを。
さりともうち棄ててはえ行きやらじ」とのたまはするを、
女もいといみじと見たてたてまつりて・・・


かぎりとて 別るる道の 悲しきに
      いかまほしきは 命なりけり


「いとかく思ひたまへしかば」との、
桐壺更衣の、歌と言葉にしました。


歌人・俵万智さんは、この歌を次のように訳されています。
『愛する源氏物語』俵万智箸

限りある 命だけれども どうしても
       今は生きたい あの人のために

そうなんです、どうしても生きなければいけないんです。
愛する人のために!
いじめなんかに、挫けないで、力強く生きて・・・いかねば。
桐壺更衣が、そのことに気づいたのは、まさに、亡くなっていく時だったのです。

もっと、もっと前に、この歌のような気持ちがあったならば・・・



どのような香りになるのか。
桐壺更衣の歌に託した香りは、
私たちに何を伝えようとするでしょうか!



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| 香道 | 16:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
聞香入門ー6:「聞香(もんこう)」という言葉について
撮影・晟聴香道では「聞香」という言葉をつかいます。
では、先達の人々は「聞香」という言葉について、どのように述べられていたのかを紹介しましょう。


『香と香道』香道文化研究会編では、
「古代人は神仏の前で樹脂を多く含んだ香り高い木を炷くことによって、敬虔な気持ちになる智慧を発見しました。
中国や日本で、香を炷き、薫りをかぐことを聞香といいますが、これは香を炷きながら天帝に祈りをささげれば、立ちのぼる香煙にのって願いを聞きとどけてもらうことができる、というのが語源のようです」


『香道の作法と組香』蜂谷宗由監修 長ゆき編では、
「鼻孔を通して精神の浄化を図り、瞬間的にせよ、自身を忘れ、無我の境地に入ることこそ、本来の聞香の姿が存在する」


『香道ものがたり』神保博行著では、
「香は匂いを嗅ぐとは言いません。
香の繊細な香りを心で味わって“聞く”といいます」


『香道入門』淡交ムックの中では、
<香道の美と魅力を語る>の項で、西山松之助氏は、「私たち日本人は、聞酒とか聞香とかいっても少しも不思議に思わない。
耳で聞くのではなく、そのことに集中して、嗅覚や味覚で判断する場合には“聞く”というのである。
味をみるとか、弾いてみるとか、さわってみるなども、目で見るのではなく集中感覚である。
香を聞く“聞香”という言葉はこういう意味だが、どことなくみやびで高貴な品格が香り漂っているような気がする」


『香道 歴史と文学』三條西公正箸では、
「平安朝の貴族たちは、衣服に匂い(香)を炷きしめるだけでは満足できなかった。彼らは嗜みとしての匂いに接しているうちに、次第に積極的となって、ついにそれを遊びの世界に導入して、当時流行していた、歌合や、絵合などと互角に据え、匂いを高次的遊びの対象として成立せしめた。
したがって、後世翫香とか聞香と呼ばれる世界は、この時期に発生したといってさしつかえあるまい。略
香道は香味を知ることに始まって、それを悟るところに終わるのである」

撮影・晟聴
そして、『法華経』には、次のように書かれています。

かの有名な鳩摩羅什(くまらじゅう)の漢訳で、
「聞香悉能知」=“香を聞きて悉く能く知らん”と。
これもまた、すごい世界です。

身心が清浄になって、香りの功徳がまし、香りによってすべてを知り分けることができるようになるのです。
そしてまた、「よく善を修める心を知るでしょう」と。
『法華経大全』大角修訳・解説


この法華経については、ゆっくりと。
それはまた広い広い“聞香の世界”に入ることができます。


このように、「聞香」という言葉には香りの功徳が詰まっているのですね。  この言葉を大切にしたいものです。

この土曜日は、花見です。

春風の 花を散らすと 見る夢は
       さめても胸の さわぐなりけり
                         西行

天気はどうかな。

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| 香道 | 20:56 | comments(2) | trackbacks(0) |
聞香入門ー5:主題と心のおきどころ
開香莚(かいこうえん)の主題は、季節を考慮して選び、
心がときめくような趣向で、おもてなしをします。
香席のあと、皆様で楽しく会話がはずむのもいいですね。
すてきな話もご馳走の一つなのですから。


桜が満開です。
写真・晟聴

さあ、「花の宴」を開きましょう!

花の下にて、“聞香「源氏物語:花宴(はなのえん)」”はいかがでしょう。

写真・晟聴源氏香図:花宴


おほかたに 花の姿を 見ましかば
         露も心の おかれましやは
                          藤壺


なんとせつなくて哀しい歌なのでしょう。

源氏二十歳の春、宮中では南殿(紫宸殿ししんでん)前にて桜の宴が催されます。

夕暮れ時、源氏は東宮の所望によって「春鶯囀(しゅうのうでん)」を舞いました。
その光り輝くばかりに美しい舞姿を見ながら、藤壺は心の中で詠うのです。
それがこの歌です。


愛しながらもふりきらなければいけない想い、けっして表わしてはいけない心。
二人の間になにもなければ、“ああ、なんと美しい舞姿”と感嘆しておれるのに!

それにしても、その舞姿のあまりの美しさに、花に露が置くように、
心は源氏の方を向いてしまう。
いやいや、きっぱりと拒まなければ・・・。

道ならぬ恋。


源氏にとって、父の后である藤壺中宮とは、実の母である桐壺に似た人として無邪気に遊んだ幼少のころがありました。
その少年に芽生えた恋心が、大人の恋になります。
それからというもの、藤壺は源氏にとって永遠の女性になってしまったのです。
この二人のせつない想いは、どうなっていくのでしょう。


なんという物語を書き綴っていったのでしょう。
そして、こんなにも哀しい“心の歌”を、よくも藤壺に詠わせたものですね。
にくい人です、紫式部は!


「源氏物語は人生の悲惨さから始まる物語」であり「恋の成就する喜びではなく、成就した恋の苦しみをメイン・テーマとして書き始められたのである」と『光源氏の人間関係』の著者である島内景二氏は述べられています。

源氏の母である桐壺更衣は、周囲のいじめの中で、精神をすりへらし亡くなっていきます。
母という宝を、小さなときに失ってしまった源氏が、どのようにして人生の幸せを求めて生きていったのか。


「人間は、少年期・青年期・壮年期・老年期で、それぞれの時期にふさわしい幸福をあくなく追い求める。

幸福を追い求めつづける光源氏の姿は、幸福を可能にする宝物を探求する物語として展開する。

シンボリックにいえば、<本当の自分>という最終的な宝物(目に見えない精神的なもの)を獲得したい光源氏が、さまざまの宝物(物体)を獲得・喪失・放棄・再獲得する和型として、『源氏物語』の大枠が把握できるのである。

人間にとって何が幸福で何が不幸なのか、そのことを光源氏の人生から読み取りたい」 
                    『光源氏の人間関係』島内景ニ箸


父・桐壺亭と母・桐壺更衣の不幸と挫折からはじまった光源氏の人生、その魂は、とめどなく幸せを求めてさまよっていくことになります。


そして、その宵、藤壺の面影を求め、さまよう源氏の前にあらわれるのが、朧月夜の君です。 「朧月夜に似るものぞなき」と古歌を口ずさびながらあらわれるのですが、また朧月夜の君も大変魅力的な女性なのです。話はそして続くのです・・・。
複写・晟聴「源氏物語絵巻」住吉具慶筆 茶道文化研究所所蔵 
『源氏物語』学研より

以前、日本文化藝術財団主催の「香の会」で、この源氏物語「花宴(はなのえん)」を主題にして香席を開催したことがあります。
会場は明治神宮の隔雲亭で、三月二十九日の花の季節でした。
その香莚は、源氏物語「花宴」に想いを託し、花を愛で、香を愛す幽玄な日本の心との出会いの日となりました。


香席では、美しく舞う光源氏とそれをみつめる藤壺の心のうち、そして満開の桜の香が炷かれ、心に満ちてゆくのです。

香りに幸あれです。
千年も前に紫式部が生み出した人々が、タイムトリップして今に蘇ります。
香りにはその力があるようですね。


香りは、文学的主題をもつことによって“物語る香り”となったのです。

香りに聴きながら、光源氏が「春鶯囀」を優雅に舞う姿が目の前に見える気がして、彼の呼吸までもが伝わってくるのです。
香りとともに・・・。

心そぞろにその舞をみつめる藤壺の血の流れは、せつない心とともに全身をかけめぐり、そして、ときにはおそく、ときには早く脈打ち乱れるのです。

それでいて、桜の花は夕暮れの淡い光の中、永遠なる真実の力で人の心を満たし、精一杯咲き乱れているのです。

「香満ちました」と、香元の声が静かに聴こえてきました。

皆様それぞれに、香りに藤壺の心を、そして光源氏の心を聴かれたことでしょう。

ありがとうございました。



それにしても、人生とは、この世に生きるとは、このようにせつないものなのでしょうか。

喜びには怒りが、楽しみには哀しみが続いていくものなのですね。

森羅万象を主題にして、香りに聴いてみましょう!
人生の悩みや怒りや哀しみや楽しみを!

丁寧に答えてくれるかもしれません。
“大いなる自分”に出会いなさいと・・・。

“大いなる自分”と出会うことの大切さ、
それは、生きることへの大いなる自信につながると思います。


香りに感謝しています。

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